小説

『なのに、俺は』ウダ・タマキ(『幸福』)

 ユーレイ-
 キャスケットとマスクの間の目が、博人をじっと見つめる。「すみません帰ります」の一言が出てこず「うっ」と喉の奥で声が引っかかった。
「よかったら、どうぞ」
 意外にも老婆は静かな口調で博人を中に招いた。
 博人が住むアパートの部屋がすっぽり収まりそうな玄関には絵画や骨董品が無雑作に置かれ、淡雪のような埃をかぶっている。カビの匂いが鼻をついた。
「で、何の御用かしら?」
 上り框にゆっくりと腰を下ろした老婆の黒目が上のほうに動く。
「あっ、わたくし、ハッピーギビングの高橋と申します。ご家庭で不要になった貴金属がございましたら、お引き取りさせていただきたいのですが」
 老婆の黒目が品定めするかのように上下に動く。博人は鼓動が早まるのを感じた。
「つまり、幸せを与えて下さるの?」
「まぁ、そんなとこです」
「ふぅぅん」
 頬杖をついた老婆の指には数個の指輪。袖口からは金のブレスレットが覗く。入社して初めて訪れたチャンスだというのに、博人は立ち尽くしたまま黙りこくっている。シャツの下に一本、二本と汗が伝い呼吸が大きくなる。
「少し待ってて」
「は、はいっ」
 おぼつかない足取りだが確かに足はある。しかし、好機に湧き起こる希望ではなく恐怖による身震いが止まらない。
「お待たせ」
 再び現れた老婆の手から指輪が全て消え、その代わりに右手には巾着袋がぶら下がっていた。重みのありそうな巾着袋に貴金属が入っているとなると……予期せぬ展開に博人の鼓動はさらに早くなる。
「これ、持っていきなさい」
「あ、ありがとうございます!」

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