小説

『真夏の浦島奇譚』小杉友太(『浦島太郎(御伽草子)』)

 すいませーん、という甲高い女の声がする。レジの脇にいつのまにか立っていたその女を見るなり私は理解した。亀である。深い皺が幾重にも刻まれ黒目がちなその顔は、まさしく亀である。
「おお、乙姫!」
「太郎さん、ここにいたのね」

                 *

 色鮮やかな熱帯魚がゆらゆらと揺れながら泳いでいる。鯛や平目の舞い踊りとはこのことか、と私は満更でもない。
「ねえ、〝おと〟さんて、かわいいよね」
「ああ。でも太郎爺さんだってそうだろ」
 あの日、太郎爺さんは老人ホームから抜け出してきたのだった。そして〝乙〟という婆さんもそこの住人であり、老いらくの恋の関係が二人の間にある事は婆さんの話し方で察した。その日の昼飯にはブロッコリーが出たらしい。それが嫌いな爺さんは怒って施設を抜け出した。脱走のついでにいつも気になっていた乙婆さんの大切な箱を持ち出す。開けるな、と日頃から言っていた綺麗な箱には婆さんの死んだ主人の写真が入っていた。前に一度開けそうになった時には「これは玉手箱だから」と注意したらしい。裏に貼ってあった「Mutation Box」とは「変化する箱」くらいの意味の商品名で、大昔に外国で夫に買ってもらった「からくり箱」なのであった。実演してもらったが、確かにわからぬ様に二重底になっていたし、側面の貝殻も動くのだ。太郎爺さんの汚れた浴衣はただの室内着で、最近はボケの症状が出初めて変な妄想や徘徊癖が増えていたという。そんな太郎爺さんが失踪と聞き、老人ホームの行事で訪れて思い出のある海岸までタクシーを飛ばすとは、乙婆さんの行動力も恋心も見上げたものなのであった。
「まあ、結果的に老人を保護してたんだからさ。俺たちはきっといいことをしたんだよ」

1 2 3 4 5 6 7