小説

『a step ahead』奥田あかね(『鉢かづき姫』)

 「お待たせしました。日向さんをお連れしました。」
看護師の声で賢治は我に返った。
 「事前にお伝えしていますが、日向さんは点字で会話される方です。ですが、お二人のコミュニケーションをよりスムーズにするために、簡単なイエスノーが判別できるジェスチャーを用意しましょう。例えば、イエスの場合は肩を2回、ノーの場合は1回たたくのはどうでしょうか。」
 看護師は賢治の肩をトントン、とたたいて見せた。
 「私はかまいませんよ。日向さんは?」
白い靄のかかった視界の中で、人の気配がうっすらと動き、自分の肩がポンポンとたたかれるのを賢治は感じた。その柔らかな掌の感触に、賢治は張り詰めた心がふと緩むのを感じた。
 「それでは、これでいきましょう。では今後の留意点などを説明していきますね。」
 看護師はそう言うと、こまごまとした事務連絡などを話し始めた。賢治はそれを話半分に聞き流しながら、これからの日向という人物との日常を思い浮かべたのだった。

 それから3ヵ月。日向のサポートが行き届いていたためか、点字でのコミュニケーションが功を奏したのか、賢治と日向は良い関係性を築いていた。日向は、点字を使うからには発語にネックを抱えているのだろうが、賢治の前ではそれを思わせないサポートぶりを発揮していた。そのうち賢治は、電車に乗るにも散歩に行くにも日向と行動を共にしていた。過去の頑なだった賢治には考えられない変化だと看護師は驚いていたが、賢治には日向との距離感がとても心地よかったのだ。
 時には自身の境遇に対する恨みつらみが口をついて出そうになる。自分の視力を奪った何かに対する行き場のない怒りが沸騰しそうになる。そんな時も、点字を手繰って日向に向ける言葉を紡いでいくうちに、かっかと火照った心が沈静化されていくのだった。

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