小説

『シュレーディンガーのうらしま』さかうえさおり(『浦島太郎』)

 十日が経った。
 望むものはすべて与えられた。うまい食事も、あたたかな寝床も、愛も。
 いや、愛はまがいものだ。けれど、まがいもので何が悪い? 事実、俺は楽しかった。
 恐らく乙姫も同じだろう。
「千数百年経っているだけあって、お前は浦島太郎よりもずっと話がわかる」
 乙姫は俺の自尊心をくすぐった。
「俺は中身の分からない箱を、不用意に開けないからな。しかしなぜ、老人になる箱など渡した?」
「玉手箱は、量子揺らぎが、異なる宇宙が繋がった通路を通った影響で出来たものだ。中身が善きものなのか、悪しきものなのか、箱を開けるまで分からなかった」
「見るまで分からなかった、か。まるで『シュレーディンガーの猫』の箱だな」
 箱の中の猫が生きた状態と死んだ状態で重なり合っているのか、もしくは最初からどちらかの状態に確定されているか、判断する方法がないことを提示した思考実験のことだ。
「妾は、『開けるな』と忠告した。なのにあの男ときたら……」
 乙姫は領巾で口元を覆ってくすくすと笑い、俺は違和感を覚えた。
「なぜ笑う? 彼を愛していたんだろう?」
「対等の存在として、愛していたと思うか? 妾たちは時に、神や精霊の名で呼ばれることもある、人間よりもはるかに高次の存在ぞ」
 乙姫の言葉を聞いた時、背筋に水を差し入れられたような気がした。
「お前は賢い子だ。だから可愛がってやろう。妾が飽きるまで」
 ゲームをログアウトするように、時折乙姫は姿を消す。
 その隙を狙い、俺は潜水艇へ行った。
 中に入ると、家永は顔色も良く、すやすやと眠っていた。
 俺は意を決してエンジンをかけ、竜宮を脱出した。
     *

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