小説

『犬の兵隊さん』平井鮎香(『桃太郎』)

 「そうでしたか」
兵隊さんの声で、ぶら子はハッと我に帰った。
地面に「帰日」と書いたまま、顔が上げられなくなった。
顔を上げたその時が、自分の命が消える瞬間だと感じたからだ。
自分は一体今、何を言ってしまったのか。
兵隊さんが先ほど発した言葉以上に、今の時代のこの国で許されないことを言ってしまった。

 兵隊さんの声色からは、何も感じ取ることができなかった。
死を覚悟し、恐る恐る顔をあげると、兵隊さんは元の何も興味がない風の顔に戻っていた。
「た、大変な失礼を申し上げました、今の話はお忘れください。お国のために立派に活躍されることを祈っております」
ぶら子はまだ洗い終わっていないピンクの軍服たちを急いで竹のカゴに詰め、逃げるようにその場を去った。逃げて逃げて、自宅にたどり着き戸を閉めた瞬間、全ての力が抜けて戸に背をつけたまま座り込んだ。しかし、兵隊さんは追ってこなかった。
その後、ぶら子が非国民と罵られ、国によって罰せられることも終ぞなかった。

 「兵長、こんなところにおられたのですか」
どギツイピンク色の軍服を着た若い兵隊が、川辺でサボっていた上官に呆れたような声をかける。
「軍一の腕を持つあなたが、訓練をサボるとは何事ですか」
「軍一の腕を持ってるからサボるんだよ」
部下のもっともな説教に、上官はめんどくさそうに伸びをしながら、足元にあった何かを揉み消すかのように地面を蹴った。

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