小説

『大先生』太田純平(『千早振る(落語)』)

 中学の国語の授業中であった。窓の外の草木は紅葉をむかえ美しくその姿を変えている。黒板には「和歌」「小倉百人一首」といった文字。前の授業は体育だったのか、まだ微かに制汗シートの匂いが教室を漂っている。
「わが庵は~都のたつみ~しかぞ住む~世を宇治山と~人は言ふなり~」
 教壇に立っている先生が和歌を詠んだ。六歌仙の一人、喜撰法師の一首である。五、七、五、七、七という日本固有の形式による詩。その美しい語感や情景に酔いしれるように、先生は教科書を片手に「ウーム」と唸った。すると――
「先生っ!」
 と一人の生徒が手を挙げた。すかさず「どうした」と老教諭。
「『みやこのたつみ』とは何ですか!」
 いがぐり頭の生徒が訊いた。日焼けした肌がいかにも野球部らしい。彼は鈴木といってクラスのお調子者だった。
「良い質問だ。キミはどう思う?」
「分かりませんっ!」
 鈴木があけすけに言うと教室にドッと笑いが起きた。先生も七福神のえびす様のように表情を緩める。
「ウン。これは人の名前だ」
「えぇ? 人の名前?」
「あぁ。これは『都のたつみちゃん』といってね。今の若い子は知らないかもしれないが、昔は『みやこ』という名前はトレンドだったんだ。演歌歌手やら漫才師やらね」
 先生が答えた。彼はまるで昭和を語るような口ぶりだったが、歌の成立は平安時代初期である。一部の生徒は首を傾げたが、水色のストライプシャツできめた白髪の先生は至って真剣であった。

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