小説

『大晦日の夜』太田純平(『藪入り(落語)』)

 健作はソファから立ち上がると、まだ大輝は帰って来ないのかと、結露で湿った窓の外に目をやった。数年ぶりに息子が実家へ帰って来る。父の健作にとって、それは一つのイベントであった。
「母さん」
「ハイ?」
「ネギ切ったね?」
「ハイ」
「シメジもあるね?」
「えぇ」
「糸コンニャクは?」
「全部あります」
 台所の郁子は呆れたように答えた。このやり取りはすでに三回目。なにせ到着は十九時という息子の言葉を信じ、十八時過ぎにはすき焼きを用意して待っていたのだ。それが連絡も無いまま延びに延びて、すでに時計の針は二十時を回っている。
「母さん肉は? 牛と豚だけじゃなく鶏も解凍しといたら?」
「そんなに食べられやしませんよ」
「まぁそうか。年越し蕎麦も食うからな」
「蕎麦も食べるんですか?」
「当たり前だよ。大晦日だよ?」
「はぁ」
 健作は朝からこの調子。久しぶりに帰って来る一人息子に、故郷の美味いもんを食わせてやりたい。その気持ちだけが前へ前へと先走る。
「アイツ酒は?」
「飲むでしょ」
「日本酒か。それともビール?」
「さぁ」
「じゃあ全部並べとくか。ワインと焼酎と」
「はぁ」

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