小説

『鬼婆』前田涼也(『鬼婆伝説』(福島県二本松市))

 それからのことはほとんど覚えていない、と千夜は言っていた。気が付けば血の付いた灰皿が右手にあり、目の前で智代子が倒れていた。急いで一万円札を搔き集めると、隣町まで歩いてビジネスホテルを転々とし、三か月経って罪悪感に勝てずにこの警察署に辿り着いた、と。
 伊藤は国道沿いのコンビニに車を泊めると、煙草に火を点けた。
 千夜の自白は本当なのだろうか。目の前で亡き夫の遺品を漁られて金を盗まれていたとして、そんなに強い殺意が芽生えるものなのだろうか。
 どんなに考えてみても、殺人事件の経験が乏しい伊藤には結論を出せる訳がなかった。

 千夜は逮捕され、取り調べが本格的に始まった。結局、民宿がある隣の市の管轄となり、伊藤は部外者となった。逮捕から一か月後、喫煙所で同僚の影山から気になる噂を聞いた。
 それは、森千夜という人物は実在しない、というものだった。
 その日の夜、伊藤は影山を連れて居酒屋に行った。田舎の警察署には目新しい話題などなく、すぐ本題に入った。

 影山が聞いた話によると、ちょっと面倒な事件であるとのことだった。

 佐田智代子の死亡現場の第一発見者となった佐田圭祐が通報したことで、容疑者である森千夜の捜索が始まった。しかし、千夜に知人はおらず、手掛かりはないどころか、戸籍を探してもそれらしき人物は見当たらなかった。千夜が逮捕されたのは、捜索が行き詰っていた頃であった。取り調べで当人を問いただすと、本名は阿部早和子である、と自白した。

「それで、まだ変な話があって」
 影山はお猪口の日本酒を一気に飲んだ。
「その阿部早和子の夫の吉蔵って、二十年以上前に静岡で行方不明になってた人なんだって」
「へえ」
 正直、伊藤はそれほど驚かなかった。そもそも立ち寄った旅先の宿に居座って何十年も住みつくなど、吉蔵もよっぽど訳ありであったことは予想がついていた。
 伊藤の反応を見て、影山は少しがっかりしていた。しかし、にやりと笑うと、手酌をしながら気を取り直したように言葉を放った。
「あと、殺された佐田智代子って、阿部早和子の娘だったんだって」
 伊藤は思わず息をのんだ。急に酒が回ったのか、視界はぼやけていた。

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