小説

『夫婦善哉』西村憲一(『夫婦善哉』(大阪府))

 夕方、二人が帰ってくる。父にしてはかなり長い時間のお出かけである。私が「どうやった?」と、母に声をかけると、彼女は笑いながら言った。
「いつもお世話になってるし、私と結婚してくれへんか、やて」
 笑顔を見せながら屈託なく話す母の顔を私は唖然として見つめる。父のほうを見ると、そんなこと言ったかなという表情で、不思議そうにこちらの顔を見ている。
「この人から、二回もプロポーズしてもらったわ。しかも、高校時代、初めてこの人から告白された場所でよ。ぜんざい食べながら。なんかラッキー」と、母は嬉しそうに、でも少し悲しそうに笑いながら言った。
「俺たちそろそろ別れようや、じゃなくてよかったわぁ」
 母はそう言うと、台所のほうへと姿を消した。もう父は母との記憶さえも完全になくしてしまっていたのだ。
 でも、この二回目のプロポーズの話を聞いて、ちょっぴり素敵だなと思った。記憶をなくしても、母という同じ人間にプロポーズした父は、昔から変わらず今でも母を深く愛しているのだと、私なりに確信した。この二人の子どもで本当によかったと、改めて思った。
 そうだ……明日、法善寺横のあの店に私も行ってみようかな。母が、父から初めて告白され、二度目のポロポーズを受けた場所。たぶんそこは、二人にとってのパワースポット。法善寺の仏様も粋なことをしてくれる。
 翌日、私は二人に内緒で、その場所に向かっていた。
 織田作之助の『夫婦善哉』を片手に。

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