小説

『夫婦善哉』西村憲一(『夫婦善哉』(大阪府))

 車の免許を取り、小さな軽自動車を買った。父と母を乗せて、あちこちドライブに連れ出すためである。父には少しでも外の刺激を、母には心身を少しでもリフレッシュしてもらいとの思いからだった。
 そんなある日のこと。遠出しての買い物の帰り、車で家路についていたとき。家に近づくと、隣の助手席に座る父が、なにやらこの先の方向を事細かに指示し出した。
「ここを曲がると、うちの前の道につながるから。さあ、右に曲がって」と。
 それはまるで、私が見ず知らずの運転手で、まるで自分がタクシーに乗っているかのようだった。
 家の前に車を止めると、父がジャンパーの内ポケットから財布を取り出そうとするのを見て、後ろに座っていた母が、「さあさあ、お父さん、急いで降りて、降りて。早くご飯の用意しましょ」と、せき立てるように父を降ろした。父は唖然としながらも、母を追うようにそのまま車から降りた。私はハンドルをにぎったままその場から動けなかった。

 以来、父の病状は急速に悪化していった。父は外に出るのも億劫になったようで、家の中で、リビングのソファとベッドの間を行ったり来たりの毎日。それでも、父の体調がましなときは、母は近所の散歩に父を連れ出すようにした。父は外に出ると、少し機嫌がよくなるときもあった。それでも人の多い場所はひどく怖がって嫌がった。
 最近は、世の中を騒がせている感染症で、街のあちこちや観光名所から人の姿は消え失せた。父はマスクをつけるのを嫌がったが、母がたしなめると大人しく言うことを聞いた。
 ある日、母が久しぶりに法善寺方面へお出かけしてみるという。
 私が「車、出そうか」と尋ねると、母は「ええ、ええ。電車使ったり、二人でゆっくり歩きながら行くし」と断った。玄関を出る二人を門の前で見送る。二人が最初の角を曲がる瞬間、母は父の腕にゆっくりと手を回した。

1 2 3 4