小説

『橋のエピソード』川瀬えいみ(『雑炊橋』(長野県))

「愛する人を信じて待っていられた幸せな人の架けた橋よ」
 雑炊橋を見詰めながら、羨むように呟く母の横顔。その眼差しを見た時、健は思うともなく思ったのである。
 もしかしたら、母は、愛する人を信じて待つことができなくて、父と結婚したのではないだろうか――と、そんなことを。
 健の父は代々続く医師の家に生まれ、市内では名士で通っている。市長の任期満了が近付くたび、市長選への出馬の話が出るほどだ。
 母は美しいが、その実家は裕福とはいえない。母の父親は相当額の借金を残して死んだのだと、健は大人たちの噂話から漏れ聞いていた。その借金を肩代わりしたのは小林総合病院の前院長で、そのせいもあるのか、健の家庭は今時珍しいほどの亭主関白。母が父に逆らう場面を、健は一度も見たことがなかった。
 美しく優しい母が自慢だった健は、自分の推測を不快に感じたのである。子供としては、自分の父と母には、やはり愛し合っていてもらいたい。
 そんな複雑な健の胸中も知らず、中学生になったばかりの妹の康子は、母の呟きに同調し、
「ロマンチックだよね~。私も待つよ。好きな人なら、いつまででも」
と、歓声を上げていた。

 ところが、そんなふうに恋を夢見るロマンチックな少女だった健の妹は、三十歳を過ぎた頃から、
「女の若い時期を、雑炊と畑仕事と待つことで過ごさせるなんて、相手の男は最低よ! 無責任の極み! 橋を架ける技術習得のために二十年も故郷を離れていられたってことは、男の方には、日々耕さなきゃならない田畑がなかったってことでしょ。橋なんか架けなくても、川幅の狭い上流か橋の架かっている下流で川を渡って、身一つで娘の許に行けばよかったのよ。そこで二人で暮らせばよかったの。なんでそうしなかったのか、理解に苦しむわ!」
といった調子で、完全に、雑炊橋ロマンス否定派になってしまった。
「女性は、季節や気候に大きく左右されるデリケートな植物のようなものよ。女性には綺麗な花の時っていうのがあるの。子供を産める歳にも限界がある。その大切な時期を、待つことに費やさせるなんて、絶対に許せない!」

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