小説

『橋のエピソード』川瀬えいみ(『雑炊橋』(長野県))

 五月の連休には、安曇野の別荘に行く。それが小林家の恒例行事だった。
 長男の健が六歳、長女の康子が三歳になった年に始まった、年に一度だけの家族旅行。
 南関東の地方都市で市立病院に次ぐ病床数を有する一般病院の院長職を継いだばかりだった健たちの父は、極めて多忙。それが当時の彼にできる精一杯の家族サービスだったのかもしれない。
 その家族サービスにも、健の高校入学を機に、一家の長である健たちの父は参加しなくなった。せっかく温泉付き別荘にやってきているというのに、日に何度も院長の指示を仰ぐ電話が入ってくるのでは、ゆっくり温泉につかってもいられない。それは、健の父には、合理的かつ致し方のない決断だったに違いない。
 その時、健より三歳年下の妹の康子は、中学校に上がったばかり。家族旅行の思い出が途絶えるには早すぎると考えたのだろう兄妹の母は、それまで食料買い出しのためにスーパーに行く時以外握ったことのなかった車のハンドルを、改めて握り直すことにした。
 そういう事情で、小林家の家族旅行メンバーから父が抜けた年からだった。安曇野の別荘に向かう途中、梓川に架かる雑炊橋に立ち寄るというイベントが、小林家の恒例行事に加わったのは。

「一度、見てみたかったの」
 健が高校一年の五月。四方を新緑に染まった山々に囲まれている雑炊橋のたもとに初めて立った時、健の母は、溜め息を漏らすようにそう呟いた。
 子供の頃、絵本で『雑仕橋』という昔話を読んだ時からずっと、この橋にまつわる物語が胸の奥底に残っていたのだと。
 長野県の梓川に架かる雑炊橋は、かつては雑仕橋と呼ばれ、二十世紀初頭に吊り橋に架け変えられるまでは、刎橋(はねばし)構造をしていたという。
 切り立った崖。川の両岸は、左右共に険阻な岩盤の壁。谷底を駆け抜ける急流・梓川。

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