小説

『さまよえる月光』滝村透(『竹取物語』)

 僕は周囲の建物に目を向ける。この辺りのアパートは、いわゆるタワーマンションとはかけ離れており、お世辞にも高いとは言えないものだった。このような高さの建物も見たことがないというのは、決定的に奇妙なことだ。
 彼女はまだ地面に座り込んだままで、僕が持つ携帯の画面や、僕ら二人しかいない東京の夜を見つめていた。
「怪我はありませんか。具合は悪くありませんか」
「いえ、大丈夫です。……ありがとうございます、私に声をかけてくれて」
 彼女はとても品のある喋り方をした。
「いえいえ、とんでもないです。立ち上がれますか?」
「はい」
 彼女は、僕の支えを受けながら立ち上がった。そのとき、彼女が扇を持っていたことがわかった。立ち上がると、彼女の着物はより一層増して煌々とした輝きを放ち、その眺めは壮観だった。
「ここがどこなのかもわからないということは、ご自宅がどちらなのかもわからないのですか」
「はい、そうです。……もう、私はどうしたらいいのでしょう」
 途方に暮れたように彼女は言った。こんなに華やかな着物を着ているのだから、このまま朝になってしまうと少しばかり騒ぎになってしまうことは必至だろう。それに、この辺りが全く不案内な女性を真夜中に一人にするのも忍びない。僕はどうするべきだろうか。
 そのとき、驚いたことに彼女が突然、
「少しだけ、私と話していただけませんか。唐突でごめんなさい。この世界の誰かと、もっと話してみたいんです」
と言った。
「えっ?」
「だ、だから……私と、話していただけませんか」
 夜空の星は、遠い昔に瞬いた光を今、地上に届けている。
「いいですよ」
「あぁ、ありがとうございます。安心しました」
 彼女は心の底から安堵したようにそう言って笑みを浮かべた。その笑顔があまりに純真だったので、僕の心には生まれて初めて誰かを喜ばせたような不思議な気持ちが広がった。
 夜中の閑静な住宅地には僕らの他に誰もいなくて、ささやかな街灯の光と静寂だけがあった。この穏やかな場所からは、悠然と夜空に佇む月を街中よりも近くから眺めていられるような気がする。彼女の方から話したいと言ってきたのに、彼女は照れくさいのかなかなか口火を切らない。
 暫くして、僕の方から会話を促した。
「お名前は何と言うんですか?」

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