小説

『僕の見る世界』香久山ゆみ(『おいてけ堀』(東京))

 後日、僕が彼女の左手薬指に『しるし』を嵌めた時、彼女は言った。
「仕事、辞めてもいいよ。転職しなよ」
 何を馬鹿なことを! 僕なんかが今さら転職先を見つけられるわけないじゃないか。
「見つかるよ。今は売り手市場だし」
 平然と言う。
「適材適所だよ」と。向いてもないし好きでもない仕事を続けるよりも、もっと自分に合った仕事を探しなよ。取引先のSEよりもナッシーの方がパソコン詳しいと思うこと、多々あるよ。
 もしも再就職できなかったら? うじうじ言う僕を彼女は一笑した。
「営業トップなめんなよ」
 私今度、課長に上がるの。まだまだ昇進するよ。だから生活費の心配はいらない。それに、偉くなったら異動させてあげるって約束したでしょ。だいいち私、人を見る目は自信あるんだから。
 本当に頼もしい。
 彼女だけなのだ。服装を変えても髪型を変えても眼鏡を掛けていたって、「児島かな」と目に留まるのは。
 小さな光がそれを確信に変えてくれる。
 彼女のことなら見つけられる。そうでなくてもきっと彼女が僕を見つけてくれる。こんな僕を信じてくれる。
 そんな小さな自信一つが、僕の顔を上げさせる。
 眩しいほどの青い空がどこまでも広がる。僕は目を細めた。

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