小説

『もりそばをすする間だけ』いいじま修次(『まあだまだわからん』(山口県))

 軽く頭を下げてカウンターを離れようとする康彦に、釜の側にいた、おそらく厨房の中で一番年配であろうミエという女性が近付いて来て声をかけた。
「あたしが聞こうか。ちょっとこっちに来ておくれよ」
 ミエはそう言うと、カウンターの端へと康彦を招き、木下もその後に着いて行った。
「あたしは釜の所でそばを受け持っているんだけど、あんたが誰かを見ているようだったから気になってね」と、ミエはカウンターに一枚の写真を置いた。
 その古いモノクロの写真を見て、康彦はハッとした。
写っていたのはミエと同じ作業着姿の、二人の若い女性。厨房を背景にして撮られており、その一人は康彦がそばをすすっている時に姿を現した女性であった。
「――そうかい……やっぱりまだいたんだねえ……」と、康彦の表情で全てを悟った様子のミエが呟くように言った。
「あの、どういう事なんでしょうか」
 康彦の問いかけに、ミエは憂いある微笑みを浮かべた。
「随分と前の事だから顔はしっかり覚えていないけど、確かにあんたに似ていたかもねえ……」
「似ていた?」
「この娘はここで働いていてね、あたしも人の事を言えるほど生まれ育ちは良くないけど、とにかく苦労をしてる娘だった……。学校なんてロクに行けなくて、家の為に一日中いろいろな仕事をして、苦労だけして若い内に亡くなってしまったんだよ……」
「……」
「ここへ来る学生の一人に恋心を持ってね……自分みたいな者がっていう気持ちがあるから、想いを伝える事もなく、その学生が好物のもりそばを食べる姿をそっと眺めているだけだったけど、それだけで嬉しそうだった……。それが……それだけが嬉しい事だったから、それを忘れられずに、あたしは何だか、あの娘が今でもここにいるような気がずっとしていてね……」
「その人が……僕に似ていたという事ですか……」
 ミエは頷いて写真をしまい、涙を堪えるようにして笑顔を作った。
「嫌な気分になる話だったかも知れないね。堪忍しておくれね」
「いえ、そんな事は無いです。――教えて頂きたい事があるんですが」
「何だい?」
「その方が嬉しそうにしていたその『時』は、そのまま止めておく事がその方にとって幸せなのでしょうか」
「何が幸せかは本人が決める事だろうけど、私は……休んでほしいと願うね」
 康彦は、はいと返事をして頷き、
「すみません、もりそば一つ下さい」と、ミエに伝えた。
「……はい」
 ミエは大きな釜の側へ戻り、手練な動きでそばを茹で始めた。
「あの写真のもう一人って、あの人だよな?」と、木下が声をかけた。
「そうだろうね……」
「凄え……何か凄えな……」
「うん」
「――俺は外すから、二人の為にしっかりな」
「分かった」
 木下が学食を後にしてほどなく、ミエが出来上がったもりそばをカウンターの上に乗せた。

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