小説

『ははきぎ』サクラギコウ(『帚木』(長野県阿智村園原))

 その夜から、怒りがこみあげてきて眠れない日々が続いた。息子が助けを求めても金を振り込んでくれなかった。有り余るほど大金が手に入ったというのに。百万ぽっちで騙されるか!
 怒り狂っていたからか体調もすこぶる悪かった。カップ麺ともやしだけの食生活だったのだから仕方がない。
 とにかくコロナが収まるまで生き残らなければならない。僕は親父の畑の手入れを始めた。百万円には手を付けたくなかったからだ。田舎は何もないところだが、新鮮な野菜と上手い水と米だけはふんだんにある。そのうえときどき早紀ちゃんがよく分からない肉の入った料理を差し入れしてくれる。

 コロナの新株が次々生まれ、終わることのないループが永遠に続くのではないかと思えていたが、都会にいた時と違いそれほど滅入ることも無くなった。ここは空気が澄んで人の密度がきわめて低い。野菜は新鮮で旨いし、そのうえタダだ。
 最近体調がよくなってきたと感じる。身体の芯まで生き返ってきた。いつの間にか健康的な身体になっていたようだ。
 早紀ちゃんはちょっと気が強いが明るく、いつもよく分からない料理を作りに来てくれる。早紀ちゃんの親父さんは相変わらず僕に小言を言い続けるが、僕は何も言い返せなかった。この世代の親父たちのしぶとさには適わないのだ。逆らうと倍になって返って来る。

 親父はもう帰ってくる気はないのだろうか。
 親父の想っている女の人は親父との生活を受け入れてくれるのだろうか。
 今まで怒りしか感じなかった親父に対し、ちょっとだけ優しい気持ちが湧き上がる。
 おふくろが死んでから一人の生活が続いたのだ。思わぬ大金が手に入り、新しく女の人と暮らしたいと思ったとしてもそれは仕方がないことで、僕が怒ることではないと思えるようになった。
 卒業式はオンラインだった。卒業した気がしないまま就職もダメになり、実家に帰れば親父は家出していた。コロナ以上にショックな出来事だったが、ここの生活を続けていたら、田舎も悪くないと思えるようになってきた。結局僕は都会に憧れていたというより、この家を出たかっただけなんだ。親父と二人きりの生活から逃げたかっただけなんだと思う。
 ずっとこのままというわけにもいかないので、田舎のバイトの時給は驚くほど低いが早紀ちゃんが紹介してくれた隣町の量販店でバイトをすることにした。
 今日は初出勤の日だ。炊立ての飯に生卵と味噌汁で朝食を済ませた。新しい車が欲しかったが、我慢だ。百万円に手を付けたくないので軽トラで通うことにした。
 玄関を出ると、爆音を立ててポルシェが前庭に入って来た。僕の前に横づけると男が降りてきて「よっ!」と手を上げた。
 親父だった。
 だが僕はその姿を見ても冷静だった。
 親父はたぶん、彼女にフラれたのだ。そして戻る場所はここしかないのだと悟った。    

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