小説

『ははきぎ』サクラギコウ(『帚木』(長野県阿智村園原))

 家の鍵はかかっていなかった。いつものことだ。一応「ただいま」と声を掛ける。家の中はシンとして親父のいる気配がしなかったが、畑仕事に行っているのだろう。仏壇に手を合わせて母に挨拶をした。
 さすがに今夜は食い物を用意してくれているだろうと望みを抱いていたが、すぐにそんな甘い考えの自分を呪った。食事の用意どころか食卓の上には何もない。冷蔵庫の中は親父の作った野菜が入っているだけだった。
 コタツの上に封筒が2通置いてある。ぶ厚い封筒と薄い封筒だ。
 昔話ではこういう場合、厚い封筒の中身は悪い知らせで、薄い方が良い知らせだ。決まっている。
 僕は迷わず薄い方の封を開けた。そこには短い文章が書かれていた。
「俺は家を出る。後を頼む」
 はーーー、なんだよこれ!
 急いで、厚いほうの封筒も開けた。
 なんと万札の束が入っていた。銀行の帯が付いている。おそらく百万円だ。初めて見る大金だった。
 親父は銀行強盗でもして警察から追われているのか?
 万札の束に手が震えた。慌てて仏壇の引き出しに入れる。
 その夜、親父は帰って来なかった。まさかとは思ったが本当に銀行強盗をやらかして逃亡の身なのかもしれない。だが僕を強引に呼び戻した理由が分からなかった。犯罪者の息子なら警察や世間の目から届かないところに住んでいてくれた方が良いと考えそうだ。いやいやあの親父のことだ、自分のこと以外何も考えちゃいない。そうか、それならそうで僕も家を出やすくなった。しかも資金が百万円もある。コロナが落ち着いたらマジで出ていくことができる。
「かあさん、ごめん」
 仏壇の母の写真が笑っている。

 その日は空腹を抱えたまま寝た。翌朝になっても父は戻っていなかった。
 それにしても腹が空き過ぎた。冷蔵庫にわずかに残る野菜を使って味噌汁を作ってみる。肉が食いたいが、野菜と米しかないため米を炊いてみた。
 ごはんと味噌汁だけの食事だったが、人生で一番美味い飯だった気がする。
 腹が満たされると、今置かれている状況はとんでもない非常事態だと思えてきた。
 そうだ、山田さんにそれとなく訊いてみよう。何か知っているかもしれない。

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