小説

『路地』千田義行(『とおりゃんせ(神奈川県小田原市や埼玉県川越市など日本各地)』)

「その路地に入ると黒い猫が出てきてさ、目だけが暗闇に浮かんでいるみたいなんだ。まるで、これ以上奥に行くなって警告しているみたいに。でも、入って行った。なんでかは分からない。だけど今更引き返せないっていう、そういう感覚だけは強く感じた」
 金村は、泣いている江口が落ち着くまで言葉を止めた。
 落ちたキャップを拾ってみたがどうしたらいいか分からず、江口の傍らに置いた。

※※

 半開きの事務所の窓から、初夏の乾いた風が走って江口のキャップを払って落とした。
 そのキャップは金村の足下まで飛んできたから、金村は反射的にそれを拾った。その金村の手にあるキャップを江口は何も言わずに奪い取るようにして、取った。
 その様子を見ていた遠野が「コイツが何かしたか」と金村に掴みかかるような素振りを見せながら入ってきた。江口の 見栄えする顔立ちは、キャップを取ると更に際立った。遠野は露骨にそんな江口をかわいがっていた。
「いえ、別に」と江口の態度はそっけなかった。遠野は金村の頭を小突いて「もう、喋んな」とすごんだ。
 金村はどうにもいたたまれなくなって、事務所から飛び出した。

 事務所を出てみたものの、どこかに行方をくらます勇気もない金村は、近くの公園のベンチに座って鳴らない電話を待った。
 手持ち無沙汰の金村は、ポケットに入っていた写真を取り出して見た。それはこの間現像から上がってきたばかりの写真の一部で、3枚ともただ一面真っ暗な写真だった。このミスショットの3枚だけ捨てようと思ってポケットに入れたまま、今の今まで忘れていたのだ。
 金村はこの自分が撮った写真が、自分そのもののように思えた。ミスショット。失敗作。
 陽が傾いてきて、生ぬるい風が冷たい風に変わってきた。砂場で遊んでいた子供たちが母親に促されて帰っていった。その方向に、いつの間にか江口が立っていた。江口は金村を見つけると、ゆっくり近付いてきた。金村は、気まずくて目をそらした。
「コレ」そう言って、江口はハンディカメラを金村に渡した。「いいインサートが撮れるまで帰ってくるなって」
 江口は、そう業務的に言った。
 指示を済ませてさっさと帰ろうとする江口に金村は話しかけた。
「これ、遠野さんからもらったんだ。けっこういいカメラらしい」
 金村は、内ポケットにいつも入れているニコンSを出して、江口に見せた。昔、事務所に入る時に遠野にもらったものだ。その時はまだ、遠野は憧れの存在だった。
「だから、なに」
「キミも遠野さんから、何かもらったの」
 なぜこんな事を聞くのか、金村にも分からなかった。
「モノもらうために仕事してんの、アンタ」

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