小説

『私は寅子』淡島間(『寅子伝説(埼玉県蓮田市)』)

 しかし、私の回想には続きがあった。
 混乱を極め、収取がつかない座敷を、私は戸の陰からのぞいていた。
(お父さん、役者だな)
 打ち合わせの時よりも激しい父の演技を見ながら、私は舌を巻いた。いや、彼らが原因で私と別れなければならないは事実だから、父の剣幕は本物なのだろう。
 あの皿に乗っていたのは、今朝、猟師から買い取った獣の肉だ。肉など食べ慣れない里の住民には、人肉と言われても疑いようがないのかも知れない。加えて、泥酔して鈍くなった目や舌には、なおのこと区別がつかないのだろう。
「寅子さん、そろそろ……」
 母の声で我に返った。そうだ。夜が明ける前にここを発たねばならない。
 私は表へ出ると空を仰いだ。地上のすみずみまで清めるような、透きとおった月の光があたりに満ちる。
「娘を、どうかお願いします」
 母が深く頭を下げる。その瞳に涙を認めると、おみつさんは力強くうなずいた。行商の荷を背負い、いつでも出発できる装備だった。
「次の夏には一緒に薬を売りに来るつもりですから、また寅子さんに会えますよ」
 と母を慰めてから、私に向き合い、念を押す。
「私たちの国までは遠いですよ。歩き慣れないうちは、辛いでしょうね」
 彼女のしっかりと地に着けた脚に目を落として、私はこれから始まる日々に思いを馳せた。この人について行く。この人の国で新たに生きて行く。行商として生きるためには、どんなに険しい道でも、歩き進めなければいけない。
 私は目の前に連なる果てしない道を思いながら、この新しい道を、どこまでも、どこまでも歩いて行こうと決めた。

 次の土曜日、空は切ないくらいに晴れ渡った。
 あの日もちょうどこんな青空だったな、と私は思い出した。朝食の後、埼京線に乗って、埼玉を目指す。蓮田駅で降りると、花屋を探し、小さな花束を選ぶ。
 会計の後、思い切ってたずねた。
「すみません。寅子石へはどう行けば良いか、ご存じですか?」
「寅子石?」
 不思議そうに訊き返しながら、年配の花屋さんは地図を広げ、調べてくれる。
「徒歩ですか? ここからだと結構歩くみたいですよ」
「大丈夫です」
 私は胸を張って笑い返した。
「歩くのは、慣れていますから」

 子膾神社。膳棚橋。有無公園。このあたりには、寅子伝説に由来する地名や史跡が多い。それだけ、彼女の物語には人の胸を打つ力があったのだろう。水を張った田圃を横に、新緑の中を進む。
 澄んだ青空に、すっくと立ちあがった石碑。思ったより迫力がある。埼玉県で二番目、国内でも屈指の規模だという。託された経緯は分からないが、ずっと以前から寅子伝説の記念碑として伝わっていることは確かだ。辻谷の人たちは今でも三月八日に集まって、寅子の供養のために団子やごちそうを作るらしい。
 誰が供えたのか、白い花が一輪、活けられている。私は持参の花束を添えると、碑を見上げ、まぶしい陽ざしに目を細めた。

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