小説

『私は寅子』淡島間(『寅子伝説(埼玉県蓮田市)』)

 回想から解放されても、私は寅子として悩んだ。もはや現代の私と寅子の間に、彼我の別はなかった。
 私は寅子。ならばやはり、伝説通りの結末を迎えるしかない。
 その時が来ることを、私は何よりも恐れた。

 その日、空は快晴だった。三月の風はまだ冷たいが、梅の枝ではつぼみが色づいていた。
 しかし、勇んで門をくぐった男たちは、花を愛でる心など持ち合わせていないらしい。どの顔も一様に睨みをきかせて、「恋敵」たちをけん制する。
 寅子をめぐってしのぎを削って来た求婚者たちが、こうして家に招かれたからには、遂に婿が決まるのだろう。設けられた宴会の座に腰を下ろし、振る舞い酒をあおりながら、男たちはその発表を今や遅しと待っていた。
「さて、こちらは、寅子がぜひ皆さまにとご用意した、心づくしの一品でございます。どなたさまも、どうかご賞味くださいますよう」
 酒宴の主、寅子の父の紹介で運ばれてきたのは、大きな皿だった。まだ血の滴る、白い生肉が盛られている。
 寅子という単語に、男たちは色めき立った。我先にと箸を伸ばし、競うように咀嚼する。
 やがて日が暮れ、酒も肴も尽きて、客としての遠慮も消え失せた。
「おい、寅子はどこだ? 全然姿を見せねぇが、いるんだろう?」
 酔いがまわって気が大きくなった男が、耐えかねたように切り出した。
「そうだ、さっさと出せ!」
「たかが娘ひとり出し渋りやがって、けしからんジジイだ!」
 他の男も声を荒げ、次々と父に詰め寄る。どの顔も火がついたように赤い。乱れた呼吸で鼻息は荒く、踏み鳴らす足も、ふらついて千鳥足になるのが滑稽だった。寅子という景品が誰の手に渡るか、焦らされることに我慢できなくなったらしい。
「寅子は……」
 父は震える手を真っすぐに伸ばした。指し示す先には、空になった大皿が置かれている。
 判じかねた男たちが怪訝な顔で問い返す。
「あの皿がどうかしたのか?」
 わなわなと震える腕を、がくっと畳に落として、父はうつむいた。伏せた顔から、悲痛に歪んだ声が漏れる。
「寅子は、皆さまからの想いに耐えかねて、自ら命を絶ちました。私ども夫婦に、遺言を残して……。今日お呼び申したのは、あの子の遺志を叶えるためだったのです。自分を嫁にと望んだ皆さまに、等しく、寅子の肉を差し上げるようにとの……」
 はらわたを絞るような、血を吐くような父の言葉。
 座にある者は皆、一気に色を失った。酒に火照った顔は青ざめ、愕然としている。見張った目で大皿を、その中央にたまった真っ赤な露を眺める。我先にと箸を付け、競って咀嚼したもの、それは紛れもない己の罪であった。
「……あれほど無理に迫られなければ、あの子は……寅子は……」
 沈黙を破った父の声は、地の底から湧くように、恨み、憎しみをにじませた。
「あんたらに、あの子がどれだけ苦しんだか、分かるものか……!」
 次の瞬間には全てをかなぐり捨て、憤怒の形相で起き上がる。
「寅子をこんな姿に変えたのは、お前だ! お前だ! お前だァァ!」
 父は絶叫しながら、車座の一人一人を厳しく糾弾してまわった。
 男たちは端からひれ伏し、泣き叫び、口々に許しを請うた。
 仏門に入って生涯を寅子の供養に捧げる、と涙ながらに誓う男もいた。きっと立派な石碑を建て、可憐で哀れな少女の霊を慰める。散々男に苦しめられた寅子の命日には、必ず女だけで参らねばならない。その供養を今後何百年も続け、果てない祈りを絶やさぬように、と。
「寅子伝説」は、ここで幕を閉じる。

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