小説

『黒い果実』裏木戸夕暮(『初恋(島崎藤村)』)

 店を出ると仕事仲間は消えていき、俺は元藤村を誘った。
 
 ベッドの中の彼女にかつての静電気は無く、怒りも悲しみも無く、成熟した体とそれなりのテクニックと、なんだかやけっぱちの性欲と。彼女は溺れながら差し出すような腕で俺を抱き、俺は助けられないまま彼女を抱いた。俺も彼女もかなり酔っていた。
「うふふっ」
 終わった後
「こうなると思ってたわ」と彼女は言った。
「先輩似てるんだもの」
「誰に」
 俺は少し面倒臭そうに訊いた。
「お父さん」
「え?」
「と言ってもお義父さんね。母の再婚相手」
「・・・妙なこと言うんじゃないよ」
「本当よ」
 彼女の剥き出しの肩から静電気が走る。
「高校の時急に転校したでしょう。それが原因だったの。母が私を連れて逃げた。その前から予兆はあったのに母は気づかなかった。見てるのに見えないふりをしてたの。だからどうしようもなくナッチャッタ。先輩は母にも父にも似てる。ちなみに旦那はね、先輩と真逆の人よ。お人好しの人情家」
 旦那?
「藤村、お前」
「あァ楽しかった。気が済んだわ」
 むくりと藤村は体を起こす。ほんの数分前までぐったりしていたのが嘘のように。彼女は身支度を整えながら
「これはこれ。仕事があったらホントに頂戴ね」とか
「誰にも言わないから心配しないで」とか
さばけた言葉を投げつけた。
 俺は何も言い返せなかった。俺は一体誰を抱いたんだ。両親に似ている俺に体を抱かせたのは復讐なのか。
 彼女は自分の体を切ってさぁどうぞ、と俺に差し出した。毒林檎は彼女自身だ。
「じゃあね先輩」
 謎の生物は髪を靡かせてホテルの部屋を出て行った。
 
 その後一度だけ挿絵の依頼をしたことがあったが、パソコンのやり取りだけで済ませて会わなかった。会いたい気持ちはあったのだが、昔藤村と云った鴇田という女は俺の手に負えない何かだった。
 
 あの絵を描いた時、誰にも分からなかった藤村のSOSを俺は感知していた。絵筆を通さなくても分かるくらい俺の感度が良かったら。俺がちゃんと見ていたら、彼女を救ってやれたのだろうか。
 あの頃、俺と彼女の間には何かがあった。体を交わさずとも通じあえる感覚が。十代の鋭敏な感受性が一瞬交差して見せた蜃気楼を、当時の俺は取り零した。
 
「いい女よりも忘れられないのは碌でもない女さ」
 昔酒の席で聞いた言葉が蘇る。
 

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