小説

『この花々を植えたひと』泉瑛美子(『桃太郎(岡山県)』)

 一家にひとり、桃太郎が必要な時代がやって来た。思うように動けないしがらみや悲しみが重なれば、ヒーローに救われたいと願うのも無理はない。なにせ彼が周りにかけた手間といえば、つめたい川の流れへおばあさんを踏み込ませたくらいのもの。割られた桃から飛び出した後は、反抗期もなくスクスク育ち、鬼退治へ自主的に出かけてくれる。動物を手懐けるのがうまいし、宝を持ち逃げしたりしない。勇敢で、誠実で、傷が見当たらないガラス球のように尊い。だから当然、桃太郎が売り出されると聞いて人々は色めきたった。桃太郎さえいれば、人生は間違いなく好転するだろう。
 その情報を教えてくれたのは、同じ団地に住むフユコさんだ。フユコさんは、ジャムや砂糖漬けを作る達人だ。達人過ぎて、思わず過剰にこしらえてしまう癖がある。その都度おすそわけをしてくれるので、我が家の台所の一角には甘い香りの詰まった瓶がずらりと並んでいる。だから彼女に「明日、桃太郎の限定販売があるってね。特売チラシ、見た?」と聞かれた時、新種の果物の名前かなにかだろうと思ったのだ。私が首を振ると、フユコさんはポケットから折りたたんだチラシを取り出した。近所のスーパーで、開店直後から桃太郎を売ると書いてある。
「みんな大好き、おとぎ話の人気者ナンバーワン!桃太郎をゲットしよう!」
 軽快なキャッチコピーに、犬、猿、雉のイラストまで丁寧に添えてあった。
「あの昔ばなしに出てくる桃太郎少年が買えるんですか」と疑り深い私を、フユコさんはかすかに軽蔑したような眼で見返した。
「他にどの桃太郎がいるというの」
 ただやはり、たたき売るわけにはいかないらしい。考えてみれば当然の話で、本物の桃太郎がうようよ存在したら困る。なので、なんの変哲もない桃のなかに、一個だけ桃太郎を隠した桃を用意しているそうだ。購入は一家族につき、ひとつまで。家に持ち帰ってそっと割り、中から桃太郎が出てきたらおめでとう、ただの桃ならそのままお食べくださいという仕掛けである。
 フユコさんはまた、さくらんぼのシロップ漬けを玄関に置いて帰った。私は彼女に、甘いもの好きの夫が北の街へ単身赴任したことを言えずにいる。夫は寒い土地で、食の好みが変わったようだ。唐辛子やキムチなど、辛いものばかり食べているらしい。お気に入りだった銘柄のお菓子を宅配便で送ろうとするといらないと答える。電話の向こうに感じる気配が、以前とはどことなく違ってきた。会話が噛み合わない時に限って、電波の調子も悪くなる。その日の電話も、シンプルに桃太郎のことを話せばいいのに、「キビ団子を作ろうと思うの」とひねくれた切り出し方をしてしまった。
 あじけない沈黙が続いたので、「モモタロウが来るかもしれないから」と補足する。そんな友達いたっけ、と聞かれ、「初対面の少年よ」と答えると、夫は乾いた声で忠告した。
「子供なら、ケーキやドーナツのほうが喜ぶんじゃない?」
 夫の声は曖昧にゆるやかに曇り、細切れになり、通話が切れた。夫はかけ直してこない。私は台所の棚の在庫を確認し、もちきびを買いに出た。周到に準備する者こそ、ヒーローに選ばれるはずだからである。
 翌日は雲ひとつない快晴だった。スーパーへの道のりは、団地中の人間が桃太郎の販売へ押し寄せているのではないかというほど、混雑している。近隣の町からも集まるのだろう、道路は渋滞し、歩道はぎゅう詰めだ。クラクションや罵り声があちこちで響くなか、私はかろうじて桃太郎の販売開始に間に合った。スーパーの裏口に仮設売り場が造営され、カラーコーンとテープで仕切られた列を警備員が整理している。

1 2 3 4