小説

『龍の祈り』夏目会(『黒姫物語(長野県)』)

 彼が頷けば、父上は馬に一鞭当てて、そのまま勢いよく駆けだす。彼もその後を追う。母上は口元にうっすらと意地の悪い笑みを浮かべたままその様子を見ていた。最初は、私の事などどうなってもいいからそんなに余裕そうな顔をしているのだと、そう思った。でも、違った。急に失速したと思ったら、同時にうめき声が聞こえる。見ればそこには血を流す彼の姿があった。驚いて地面を見れば、そこには逆さに植えられた刀が何本も隠されていた。見れば父上の馬は刀が植えられたところを避けながら駆けていて、思わず小さな悲鳴がこぼれる。・・・間違いない、これは父上の仕業だ。
「なんて事を・・・」
 刀があるとこを避けながら進めば、どうしたって父上の馬に遅れてしまう。だから、だから彼は。傷ついたまま進み続ける。血を流して、苦しそうな顔をして、でも進み続ける。やめて、もういいの、もう十分だから。
「お願い!やめて!」
 急に叫び出した私を驚いたように母上が見つめる。そのまま彼の下へ駆けだそうとすれば、周りの者たちに羽交い締めで止められる。
「もういいから!止まって!」
 私が助けてなんて言ってしまったから、彼はこんな目にあっているのだ。私が我慢していれば、欲を出さなければ。私が、生まれてこなければ。叫ぶ気力も無くなって、その場に座り込んでしまう。大声なんてしばらく出していなかったから喉が痛い。痛い、痛い、喉だけじゃない、心が痛い。
「・・・っ・・」
 20周が終わった。ついに彼は父上に遅れなかった。約束を果たしたのだ。人間の姿に戻った傷だらけの彼は、肩で息をしながら、父上の方を見る。
「さあ、約束です。黒姫様を、私に」
 言い終わる前に、血しぶきが舞った。誰の血?ああ、これは。
「っ!黒姫!」
 私の血。
 傷だらけでまともに歩けない彼を、父上は刀で切りつけようとした。約束を守る気なんてなかったのだ。彼を突き飛ばした私の肩を、父上の刀が掠めた。痛みに耐えきれず意識が飛びかける。瞬間、晴れていたはずの空が急に暗くなる。真っ黒な雲がかかって、大粒の雨が降り出した。聞こえる雷の音と、全てを吹き飛ばさんばかりに吹く風。父上たちの悲鳴が聞こえる。ぼんやりと私はその音を遠くに聞いていた。
「・・・め、ひめ。」
「黒姫。」
 目を開ければ、目の前には心配そうな彼の顔があった。私は彼に抱きかかえられる形で目を閉じていて、切られたはずの 肩には傷一つなくて・・・って。
「あなた!大丈夫なの!?」
 彼の服は血まみれのままだった。包帯は!?城のどこにあったっけ!?なんて焦っていれば、落ち着け、と呆れたように笑われる。
「私は大丈夫だ。こんな傷すぐに治せる。私を誰だと思っているんだ。」
「よかっ・・・たあ・・・」
 どうやら私の肩の傷も彼が治してくれたようだ。ほっと胸を撫でおろす。そして、静かに下を見た。
「これ、あなたがやっているの?」
「・・・ああ。」

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