小説

『帽子の底』百々屋昴(『王様の耳はロバの耳』)

 家庭科で使った裁ちばさみを握る。今の自分がおかしいことくらいわかりきっていた。それでもこれよりマシな案を誰も教えてくれない以上、僕はもうこうする以外の方法を思いつけない。

 いらないなら、捨てればいいだけだ。

 手探りで、長く伸びた耳の付け根に刃を当てた。
 ひやりとした感触に背筋が震える。血の巡った耳はひどく熱い。心臓の鼓動に合わせて熱が巡る。

 ――心臓と繋がっているものを切り落として、大丈夫なんだろうか。死んでしまったりはしないだろうか。
 ああ、でも別にいいのか。もしそうなったとしても。
 殺されるよりはマシだ。

 ぐっと手に力を込めた。熱が痛みに変わる。肉を抉り軟骨を削る激痛を、歯を食いしばって堪え続けた。刃を進める。僕の一部分を切り落とす。
 ぼとり、と湿った音。

 気づけば、すぐ隣に耳がごろりと横たわっていた。変体し損ねた芋虫のようなそれを、滲む視界で正面から捉える。
 まだもう一方の耳が頭の上に残っていた。もう一度、刃を当てる。
 二度目は、一度目ほどの苦痛ではなかった。もう麻痺したようになっている。血と脂で滑り、先にはさみの方が駄目になった。まだ切断されきっていない左耳を掴み、引きちぎる。

 その瞬間、ふっと楽になった。全身の熱がさっと一気に引いていく。もはや涙すら出てこない。
 なんだ、これが「普通」なのか。こんなものが。
 失った耳の代用品であるかのように、冷え切った虚しさが胸の真ん中に居座っていた。

 

*****

 

 冬だというのに、通学電車の中は蒸し暑い。
 通過駅のホームは仕事帰りの人間でごった返していた。ドアが開く。人が雪崩れ込んできた拍子に、隣の乗客が持つスマホの画面がふと目に入った。動画サイトの番組らしい。ロバの耳を生やしたタレントたちが楽しげに歓談している。本物の耳だ。
 気になって、自分の頭にそっと手をやる。ずれたニット帽を直した。もう隠す必要なんかないのに習慣は長らく抜けないままで、冬場はいつも何かを頭に被っている。

 最寄駅に着いた。電車を降りる。いつもの帰り道を辿って、アパートの階段を登り、三階の角部屋の扉を開ける。
 一人暮らしでも癖は抜けない。投げっぱなしの「ただいま」を言って、靴を脱ぐ。
 ぼんやりと、電車内で見かけた番組のことを思う。あれから何年か経って、世間も多少は様変わりした。

 あの頃は「いちゃいけないもの」で、今は「いてもいいもの」。なんて、きっとそんな訳はないんだろう。
 耳は耳のままだ。

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