小説

『口うるさいレストラン』ウダ・タマキ(『注文の多い料理店』)

 そうだったな、と和樹は思った。紙に記された言葉は、いつの間にか視覚ではなく和樹の聴覚に訴えてかけていた。
 そして、また次の扉をゆっくりと、丁寧に開けた。

『人には優しくね』

 最近の和樹は、仕事のストレスから人にきつくあたることがあった。胸に突き刺さる言葉だった。
 その後もメッセージは続いた。

『感謝の気持ちを忘れちゃだめよ』

『笑顔でいれば良いことがあるから』

『大丈夫、明日があるよ』

『無理だと思ったら逃げていいから』

 いつの間にか和樹の心は温もりで満たされていた。死に場所を探して彷徨っていた男が辿り着いた一軒のレストラン。そこで出会った言葉たちによって彼は救われようとしていた。

 そして、和樹は次の扉を開けた。なんとなく、これが最後の部屋だと思った。これまでと違うのは、この部屋だけには窓があったこと。シャンデリアの灯りは無く薄暗い。窓から射しこむ月明かりだけが、ぼんやりと部屋を照らしていた。

『とにかく、元気で生きるんだよ』

 その言葉に和樹は泣き崩れた。
 途中から気が付いていた……
 和樹にとって口うるさい母親だった。高校を卒業し、大学へと進学するために上京した和樹だった。しかし、大学の環境に馴染めず二回生に進むことなく退いた。和樹は母子家庭に育った。苦しい家計から母親に学費を工面してもらったことは痛いほど理解していた。罪悪感に苛まれながら告げた事実に母親は「大丈夫、明日があるよ」と電話の向こうで笑った。その優しさが和樹には辛かった。
 あれから二十年が経つ。職を点々としながら命を繋いでいる和樹には、母親の言った「明日」さえも見つからぬまま、時だけが過ぎ去って行くのだった。
「仕事、どうだい?」
 そう聞かれるのが嫌で連絡を取るのを避け、さらには実家から足が遠のいていた。ある日の母親からの留守番電話には、たった一言だけの伝言が残されていた。

「とにかく、元気で生きるんだよ」

 ただ惰性で過ごす毎日である。日頃はそんなことを考えはしなかったが、どうやら人間は節目の年齢になると様々な思考が巡るようだ。このところ、和樹は人生について考えていた。いや、正しくは過去を悔やみ、将来を悲観していたのである。

1 2 3 4