小説

『口うるさいレストラン』ウダ・タマキ(『注文の多い料理店』)

 カタン、カタン、と、水の枯れた側溝の蓋を踏む音が闇夜に響き渡る。和樹はそれを聞いているのかいないのか、ただ、ぼうっと、しかし一歩一歩確実に音を奏で続けていた。ゆっくりと、コートのポケットに手を突っ込み、俯きながら。
 音の色が変わった。随分と重く、鈍くなったのは蓋の材質が変わったためである。和樹は我にかえり立ち止まった。そして、誰かに声をかけられたようにして視線を左に向けた。
 そこには洋館があった。三角形の尖った屋根に、間口が狭く奥行きの長い少し奇妙な外観である。洗練されたビルに挟まれるようにポツンと一軒だけ佇んでいる。時代に取り残されてはいるが趣がある。と、表現すれば聞こえは良いが、夜の闇には少々不気味でもあった。
 中世ヨーロッパの屋敷のような建物の外壁には蔦がへばりついており、薄っすらと窓から漏れる光の向こうには魔女でも潜んでいそうな。しかし、『Restaurant pleine lune』と、流れるような字体で記された看板が掲げられているのでレストランであることに違いない。
 こんな店あったかな、と和樹は不思議に思った。
 客の気配は感じない。少し冷たい夜風がさわさわと木の葉を揺らす。黒色の野良猫が門の辺りで毛繕いをしている。目が合った。その鋭い視線は和樹を睨みつけるような、もしくは蔑むように見えた。本来なら一見(いちげん)の者が入るのは躊躇われるはずだが、和樹は吸い込まれるようにして洋館に足を踏み入れた。
 重厚な扉の把手には装飾が施されている。手をかけた真鍮の把手は冷気を受けてよく冷えていた。和樹は扉の見た目から重さを推測し、全身に力を入れて引っ張った。蝶番が高い音を立てて軋み、放射線状に光が漏れる。
 扉の向こうは豪奢な雰囲気のロビーだった。しかし、そこには「ようこそ、いらっしゃいませ」などと丁重に迎える店員の姿はない。そもそも人の気配すらない。ただ、中央に置かれた腰ほどの高さのスタンドには、何やら記された白い紙があった。メニューか記名帳かと思い覗きこむ和樹。が、違った。そこには客に向けたメッセージが書かれていた。

『手洗い、うがいをしっかりしましょう』

 部屋の片隅には小さなアンティーク調の洗面台、そして石鹸とアルコールが備えられていた。建物の雰囲気とメッセージには違和感があるが、なるほど、このようなご時世である。人との接触を避けるため、こういったシステムも理にかなっていなくもない。そう納得した和樹は指示されるがまま丁寧に手洗いをした。
 部屋の奥には次の扉がある。開けた先にこそ見慣れたレストランの光景が広がっているに違いない。和樹はそう思い把手に手をかけて力一杯に引いた。さっきの扉より随分と軽く、扉の開く力に引っ張られた和樹は後方によろめいた。
 隣室は先ほどよりも少しばかり広めだったが、幾分か質素だった。天井からぶら下がるシャンデリアこそ美しいが、窓も何もない四方を白い壁に囲われただけの殺風景な部屋である。そして、やはり部屋の中央にはスタンドだけが置かれていた。またしても何やら記された白い紙があった。

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