小説

『バイ菌』N(『外科室』)

 ある休日のアルバイトの日。その日は、洋一と有紀は同じ時間に仕事に入り、同じ時間に上がりになった。いつもより遅い午後20時まで働いた。店の外の道行く人はだいぶまばらになった。
 洋一が上がり前に、ルーティンワークの店内一回りの軽い清掃をしているときだった。
「洋一先輩も上がりですね。送ってください」
 明るい、何の欲もないような声で、しかも密かに囁くわけでも無く、店の厨房にいる者には確かに聞こえる大きさで高島有紀が、ほうきとちりとりを手にして通りかかった洋一に言った。
「あ?ああ、いいけど」
 洋一は、そういうことには疎かったのでドギマギした。洋一は、今日、有紀と一緒に帰りたいとは思っていた。が、有紀にそのことを切り出せずに手をこまねいているうち時間がたって、最後の最後にあっさりと先に誘われたのだ。
 慌てて洋一が反応したが、それがおかしかったのか、店内の方々でこそこそ笑い声が聞こえた。

 洋一は有紀を送っていくことになったが、家がどこにあるかは知らなかった。それを聞くと、洋一の家とは途中で反対方向へ行くのだと言うことが分かった。そして彼女は一度電車を乗り換えて数駅行き、降りたところで今度はバスで3つ先で降り、そこから歩いて1分で家に着くと説明した。有紀は、
「分かれ道の所まででイイですよ」と言っていたが、洋一は、
「家まで送って行く」といってゆずらなかったので、
「先輩にそう言われては断れませんね」と彼女は笑って承諾した。
 道々、洋一と有紀はいつもとは違う話をした。有紀には将来、美容師として独り立ちする夢があると分かった。それを聞いて洋一は、自分にはそのような具体的な夢というものが無いことに気づき、「なんも無いなぁ」としか言えないことに恥ずかしさを覚えた。
 そういう話をしている中で、有紀の中学校時代の同級生に津田鈴美がいると分かった。この鈴美という女の子は洋一の高校に進学していて、洋一の知り合いだった。
「先輩。鈴美を知ってるんですねー」
 有紀は、それしか言わなかった。鈴美とどんな関係であったかなど、細かなことは口にしなかった。
 電車の駅を出、バス停に向かうところで、
「バスに乗らないで、歩きましょうか」
 有紀は微笑みながら、少し下を向いて言った。
「バス停、3つ分だけど、そんなに長くないです。自分でも、よく、歩くことあるし」
 歩こうという道は、新興住宅地と古い家並みが、左右に分かれてきれいな新しい道が駅前から続いていた。道が新しいので、街灯も等間隔によく見える明るい光を放つものがずっと立ち並んでいるのが見えた。
 バス停3つというその道を歩くのに、有紀がいつも歩くよりはだいぶ時間が掛かった。その中で二人はたくさんの話をした。洋一は歩く中で、有紀と手を繋ぎたいような衝動を持ったが実行はしなかった。彼の感性はまだうぶなものだった。「家まで送る」という以上のことをするのは、今日は意に反する気がした。ただ、悪くない関係という感じはした。つき合い出すときは、そういう曖昧な心のやりとりが続くのだ。それは、二人にとって、もっと幼かったころの、好きか嫌いかを明白に告げる関係を避けた大人の使う小狡い技とは違う、純粋に恥ずかしいという思いから生じたものだった。
 有紀の家の前に着くと、有紀は洋一に向き直り、
「送ってもらって、ありがとうございました」

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