小説

『レモン味の』斉藤高谷(『檸檬』)

 けど。
 もし、そこに誰かの〈善意〉があったというのなら。
 それを無視するようなことはしたくない。
 してはいけない。
 だから振り向け。
 梶井さんに声を掛けろ。恥を掻くぐらい何だ。そんなのはとうに慣れっこじゃないか。
 振り向け。
 振り向け。
 振り向け。

   ◆

 駄目だ。
 わたしは何を待っているんだ? 丸山が優しい言葉を掛けてくるのを期待しているんじゃないのか?
 甘ったれるな、モトコ。お前にそんな資格はない。前に進みたければ、自分の力で道を拓くしかないのだ。
 これまでそうしてきたように。
 これからもそうしなければいけないのだ。
 それが、お前があの時、彼を見捨てたことに対する唯一の贖罪なのだ。
 だから声を掛けろ。
 丸山を振り向かせろ。お前が恥を掻くぐらい何だ。傷つくのを怖れるな。
 声を掛けろ。
 掛けろ。
 掛けろ。
「あの、梶井さ――」
 あ、タロ。

   ◆

「――ん」あれ?
 梶井さん?
 さっきまで、というかつい今し方まで気配があったはずなんだけど。
 まあ、いいか。また後で。
 口の中が乾いている。あれだけ緊張すれば無理もない。
 手元にはアメ玉。ちゃんとお礼を言う前に悪いとは思うけど、封を切る。黄色い球を、口へ放り込む。レモンの味が、口いっぱいに広がる。
 すっぱいな。
 あの時のアメも、こんな味だったのだろうか。
 爽やかな風味が、鼻を抜けていく。

   ◆

 蛇口から流れ落ちるこの水で顔を洗えたらどんなに爽快だろう。そうは考えても、思いとどまる程度には落ち着いてきた。水を止める。
 鏡には、疲れた顔の臆病者が映っている。情けない表情。もし今、こいつが生徒会長に立候補していても、わたしは絶対に投票しない。
 予鈴だ。
 席に戻りたくない。といって、わたしが理由もなく授業をばっくれるわけにもいかない。保健室にでも行こうか。うん、そうしよう。
「あー、モトコー」城田。予鈴鳴ったんだから教室戻れよ。人のこと言えないが。というか、こいつは何を怒ってるんだ?「さっきのアメちゃん、丸山君にあげたんでしょ」
 なぜそれを? 舌がもつれて言葉にならない。
「丸山君がアメ舐めてるの見たよー。あれ、モトコのだよね」
 丸山が、アメを。
 そうか。
 そうか。
「って、どこ行くの? 授業始まるよー?」
 わたしは行きかけた足を止め、振り返る。
「アメちゃん買いに行くんだよ」

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