小説

『自尊の果て』川瀬えいみ(『山月記』)

 そんな気宇壮大な夢を見ても、李徴の気持ちは少しも晴れなかった。

 地上にただ一つの存在になれば、誰も自分を認めてはくれない。誰も自分を必要としない。誰も自分を愛してくれない。
 自分以外の他者がいないということは、そういうことである。
 李徴は、誰もいない世界では生きていけない自分に気付いた。
 李徴が望んでいたのは、自分が世界を支配することではなく、世界に認められ愛される自分だった。多くの凡才たちが大詩人李徴を賛美し、崇拝する世界。それが李徴の望む世界だったのだ。
 誰もいない世界では、生きている甲斐がない。

『才能はあったはずなんだ。なかったはずがない』
 にもかかわらず、人間でいられず、虎でもいられず、猫でもいられず、鼠にまで堕ちてしまった。
 鼠としても下の下。ここまで堕ちたらもう十分である。
『才能はあったはずなんだ。なかったはずがない』
 そうではない。才能などなかった。他者の才能を認める謙虚の心もなかった。自分の無才を認める勇気もなかった。
 ここで死のう。もうここで死ぬしかない。
 李徴は死を覚悟したのである。
 自分には才能などなかった。もし幾許かの才能があったのだとしても、才能よりもっと大切なものがなかったのだ。

 李徴は、初めて――死を覚悟して初めて――己の真の姿を見る勇気を持つことができた。そして、己の真の姿を虚心に見詰めた。
 李徴の脳裏に映る己の姿は、みすぼらしい瘠せ鼠だった。自尊の罠に囚われて身動きもできない哀れな命。
 最期の最後に、己の真実を見極める一瞬を得ることができたのは幸いだった。この一瞬を持つことができたのだから、こんな自分の生にも幾らかの意味があったかもしれない。
 李徴はそう思ったのである。苦く、切なく、李徴がそう思った時。

「李徴! だから、言ったのに! 助けに来たよ!」
 李徴が捕まっている鼠捕りに駆け寄ってきたのは銀麗だった。しかも一人ではない。彼女は大勢の仲間を伴っていた。
「俺を助けるなんて無理だ」
 鼠取りのバネは強力で、二十個の小さな鼠たちの手の力を合わせても外せるものではない。
 だが、銀麗は諦めるつもりはないらしい。
 彼女は仲間たちに合図を送った。鼠たちが罠の周りにやってきて、バネや木板の様子を確認し始める。
「俺なんかのために、危ない橋を渡るのはやめてくれ。このバネは固くて強くて危険だ。もし人間が来たら――」
『俺なんかのために』
 それは今の李徴の本心だった。ここに駆けつけてくれた鼠たちの命は自分の命より重いと、李徴は本気で思っていた。
 銀麗が小さな小さな手を、李徴の前でひらひらと振る。
「バネを齧り切ろうなんて無茶は考えてないよ。バネじゃなく木板の方を齧って、真っ二つにするんだ。みんなでやれば、朝になって人間がやってくる前に何とかなる」

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