小説

『もしわたしがいなくなったら』立原夏冬(『雨月物語』より「浅茅が宿」)

「たしかに意味がないのかもしれない、でもね、きっと神様がどうにかしてくれるのかもしれないわ。」
 真一は、泣きながら目の前の離婚届にサインをした。真一の頭はますますぐらぐらして、次第に視界がぼやけてくるとともに、激しい眠気が襲ってきた。そして、真一はそのまま意識を失った。

 真一が目を覚ますと、そこは、いつもの自分の家だった。朦朧とする頭で部屋を見て回ったが、桜はどこにもいない。家の中は出張に出かけた時のままで、昨日桜が用意したはずの夕飯の痕跡さえ影も形もなかった。その時、郵便受けに何かが投かんされる音がした。見ると役所からの通知で、そこには桜の旧姓の名前と、この人物が新型感染症で死亡したこと、身寄りがなかったことから、遺体は火葬され、所持品も処分された旨が書かれていた。
「そんな…。」
 真一は絶句しつつも、通知に記載された問い合わせ先に電話を掛けた。電話口に出た女性は、真一の問い合わせに事務的に答えていったが、その答えは通知の内容とたいして変わらなかった。3日前、その住所から女性が病院に搬送されてきて昨日息を引き取ったこと、女性は最後まで自分には身寄りがいないと話していたこと、女性には新型感染症の疑いがあり、遺体の長期の保管が不可能と判断されたため、火葬され、所持品も処分されてしまったこと。説明を聞きながら、真一は泣き出していた。その様子を聞くと、女性は少しためらうようにして、付け加えた。
「それと…、余計なことかもしれませんがお伝えします。この方は搬送されてきたとき、封筒を持っていました。どうしてもと、本人が非常に強く希望されたので、その封筒は丁寧に消毒をしたうえで郵便に出しました。ちょうど、書類が一枚入るくらいの封筒だったと思います。この方が亡くなられる一日前、おそらく一昨日には相手方に届いていると思うのですが…。」
 真一はその話を聞いて、体中から力が抜けていくのを感じた。そのまま電話を切ると、真一はその場で泣き崩れた。

 電話が切れたのを確認すると、美咲は桜に向って興奮した口調で言った。
「ねえ、完全に信じ込んでるよ。すごい泣いてた。」
「そういう人なの。何日かは泣いてるかもしれないけど、数日したら、いつも通りになるよ。冷静になって気づいたとしても、これさえ出しちゃえば赤の他人だしね。」
 そういって、桜は手に持った離婚届をひらひらさせておどけて見せた。それを見て美咲は笑った。
「変わってないなあ、あんたは。いつも明るかったもんね。でも大丈夫かな。病院に問い合わせたりしない?」
「そこまで私に愛情があるのかな…。あの人は私が逃げたとしたら、きっとどこまでも追ってきたと思う。だけどね、私が離婚したのは、自分に迷惑をかけないためっていうストーリーは、案外すんなり受け入れる気がする。馬鹿にされたりするのが大嫌いだから、死んだ妻と会ったなんて話は、人にはしないだろうし。」
「ねえ、桜。これからどうするの?」
 美咲はコートに手を伸ばしながら尋ねた。桜もコートに袖を通しながら答える。
「そうだねえ。何にもなくなっちゃったし、借金はまだ残ってるけど、働いて、少しずつ返していく。もし難しそうなら、自己破産してもいいし。」
「もう何も持ってないものね。1年か2年くらいだったら、私の家に住んでいいよ。じゃあ、さっさと役所行きましょうか。途中、どこかでご飯たべていこうよ。」
 そして、桜と美咲は、笑いあいながら外へと出ていった。

1 2 3 4