小説

『夏の雪を買いに』若松慶一(『手袋を買いに』)

「お母ちゃん、雨が降ってないのに、雨の音がするよ。不思議だよ。大雨だよ」
 子狐は驚いた顏で寝ていた母さん狐のもとに駆け寄り、母さん狐の体を揺さぶりました。
 母さん狐は眠い目をこすりながら子狐のふわふわの柔らかな手に引っぱられて、洞穴の外に出ました。森全体を覆う深い緑に、お日様の光が反射してキラキラと輝いています。子狐が言ったような雨は降っていません。けれど、確かに雨のような音はします。
「ほらほら、お母ちゃん、雨の音がするでしょ。ざぁざぁざぁざぁ」
 昨日までの長かった梅雨が明け、灰色の雲の切れ間から、一筋のお日様の光が射しました。遠い山の稜線の向こうには、うっすらとした色の虹も見えます。もうすぐ、狐の親子が住んでいるこの森にも、暑い暑い夏がやってきます。雨の季節が終わったと同時に、一斉に鳴き始めたセミたちの声が聞こえてきます。初めての夏を迎える子狐はセミの声を雨の音だと勘違いしたようです。
 母さん狐は去年の冬を思い出しました。あの日も坊やは、雪に反射した光が、「眼に何か刺さった、抜いて抜いて」、と大騒ぎしていました。本当に可愛らしい坊やです。
「坊や、あの音は雨じゃなくて、セミの鳴き声よ。本当は、私たち狐は春に生まれるのが普通なんだけど、坊やはなかなか生まれてこなくて、けっきょく秋の初めに生まれたから知らないわよね。坊やもよく知っている、雪の季節を越えて、森の緑が芽吹く季節も越えて、この間までの雨の季節も越えて、もうすぐ、夏という季節がやってくるの。夏になると、この森でも、たくさんのセミが大合唱を始めるのよ。アブラゼミ。ミンミンゼミ。ニイニイゼミ。ヒグラシ。ツクツクボウシ。みんな鳴き声が違うの」
 母さん狐はセミのことを子狐に詳しく教えてあげました。すると子狐は、「僕、セミ見てくる」と、一目散に洞穴を飛び出して駆けていきました。やれやれ、去年の秋は坊やも生まれたばかりで小さかったから分からなかっけれど、この分だと、今年の秋には「お母ちゃん、鈴がコロコロ鳴っているよ」と、秋の虫の声を聞いて大騒ぎしそうだわ。
 子狐は、森の木々の間を駆け抜けます。森の地面は、所々に水たまりがあり、まだ少しぬかるんでいます。急いで走るとすべって転びそうになりますが、ずっと雨が続いて外に出たくても出られなかった子狐は、嬉しくて嬉しくて、何度も転びそうになりながらも走り続けました。
 パタパタパタ・・・目の前の木々と木々の間を見たこともない虫が飛んでいきました。子狐は驚いて虫を追いかけました。虫は大きな松の木の幹に止まりました。ジィ~ジィ~ジィ~ジィ~・・・。虫から雨の音が聞こえました。
「わぁ~、これがセミか~!」
 セミの透き通った羽に木漏れ日の光が反射して輝いています。子狐がもっと近くで見ようと顏を近づけました。
パタパタパタ・・・セミは子狐がいくら頑張っても登れないような高い木の枝まで飛んでいってしまいました。
 子狐はそれからもセミを追いかけたり、木登りしたり、小川で水浴びしたり、背の高い真っ白なヤマユリの花を飛び越えたりして遊びました。空には大きな大きな入道雲が見えます。雲の切れ間から射していたお日様の光は、今では森全体に降り注ぎ、雨露に濡れた子狐の体を暖かく乾かしていきます。

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