小説

『河童の川野君』裏木戸夕暮(『河童』)

 しばらくクッキーを頬張った後、ポツリと。
「初めて喋った。誰かに」
「河童のこと?」
「まぁ、安達さんが騒いだら走って逃げて、そのまま転校すればいいやって思ってた」
「何で喋ったの」
「いい加減誰かにぶっちゃけたかったのと。学校行く途中のお地蔵さんに会釈するような子なら安心かなって」
「うわ見られてた・・」
「あれ、何で?」
「田舎のおばあちゃんに昔教わったから、つい」
「あと掃除の時間、真面目に掃除してるから」
「それはみんなそうでしょ」
「安達さんは人が見てない時もちゃんとしてる」
 顔と胸が温かくなった。見てくれる人がいたんだって。
「ありがとう。黙っててくれて」
「こっちこそ助けてくれて。あと、信用してくれてありがとう」

 川野君は卒業するまで同じ小学校に居た。私は受験して私立中学に進み川野君と離れ離れになった。高校も別。町中でたまに見かけることはあって、目と目で挨拶をした。
 そして高三の夏が襲いかかる。一級河川の堤が破れ、私たちの町は水に飲まれた。

 恐怖なんて言葉も軽い位の暗くて恐ろしい夜。例年の数倍の雨量に耐えかねた川は弾け、家も家族も田んぼも車も飲み込まれていった。私は電信柱にしがみついていた。誰もが誰かを呼んでいた。町が阿鼻叫喚に沈む中で私は見た。濁流の中でひと筋の清流のように自在に泳ぎ回る姿を。
「川野君っ!」
 もしかしたら、他にも誰か見ていたかも知れない。でも信じられなかっただろう。瓦礫や木片が渦巻く中、次々と溺れていた人を抱えて陸に上げ、また水に潜る川野君の姿を。
「おかあさーん、おかあさーん!!」
 泣き叫ぶ子どもに水飛沫が閃いた。子どもはぐんぐんと流れに逆らい建物の屋根に上げられた。そんな景色を何度も見た。
 あんなに、あんなに夜明けを待ち望んだことはなかった。神様助けてと祈ったことはなかった。何人も人が亡くなった。小さい子だけが生き残ったとか、目の前で家族が流されていったとか、聞きたくもない悲しい話をたくさん聞いた。友達も死んだり行方不明になったり・・・その後私たち一家は親戚を頼って町を離れた。

 水害と関係あるか分からないけど、両親は離婚して私は母の方へ引き取られた。親戚の家で暮らし、大学進学をやめて就職した。母は悲しんだけど私は早くお給料を稼げるようになりたかった。
 二人でアパートを借りて暮らし始めたが一年も経たないうちに母は亡くなった。私は体がすうすうと涼しくなったような生活を続けた。

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