小説

『蜘蛛の意図』財賀真理(『蜘蛛の糸』)

「キャア」と小さく女が悲鳴を上げた。
「あーあ先輩、漏らすのかよ」と結崎が動きを止める。
 そうだ。結崎。もう十分だろう。こんな醜態をさらした男を殺して何になる。つまらないことで一生を棒にふるなんて馬鹿げている。早まるな。今日のことは誰にも言わない。無かったことにしよう。頼む。
 誠一郎は芋虫のようにもがいた。唯一動かせる頭を激しく振った。もがけばもがくほど便意が襲う。尻から生ぬるい液体が流れ出るのを感じた。
「くさい」女の声。「くさいな」結崎の声。
 全身の力が抜けていく。私はまだ生きている。その匂いが生きている証拠だ。セミの小便と一緒だ。殺すなら殺すがいい。だがきっと。だがきっと。次の言葉が見つからない。私は罪を犯した。その報いがこれだ。だがきっとお前たちも地獄に落としてやる。
 涙と土まみれの誠四郎の瞳が焦点を取り戻した。
 目の前のカバン。半開きなったファスナーから書類と弁当箱と弁当ケースが覗いている。すると弁当ケースから、あいつが這い出してきた。なんだお前、まだ、そんなところにいたのか。早く家に帰りな。妻はお前を殺しはしない。
「くさい。くさい」
「確かにくさい。はやく埋めちまおう」再びシャベルが土をけずる音がする。
 蜘蛛の上にも容赦なく土が降ってきた。蜘蛛が誠四郎の顔に近づく。ああ、助けてやりたいが体が動かない。
「あなた。あなた」
 由美子の声が聞こえた。それはほんの小さなノイズような音だったが確かに妻の声だった。どこだ由美子。私はここだ。
「あなた、あなた」
 声は目の前の蜘蛛から発せられている。とうとう狂ったのか私は。ならば死の恐怖を感じないほどに狂いたい。

「あなた、お風呂にはいったら」
 誠四郎からの返事はない。
「あなた、聞こえてる?」
 テレビの音が消える。誠四郎が風呂に入ったのを確かめ、由美子はリビングに向かった。
 カーテンの裏側を見た。黒い蜘蛛がいる。やはり誠四郎は殺したり追い払うことはしなかった。思った通りだ。テントウムシと蜘蛛、どちらにすべきか迷ったが、蜘蛛を選んで正解だった。
 以前”本当の蜘蛛”を見た時、誠四郎は言った。「お前は虫が苦手だろう。でも蜘蛛は益虫なんだ。ゴキブリとかを退治してくれる。人間には無害だ。だから殺さない」

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