小説

『幻のお供』池田啓真(『桃太郎』)

 あたり一面に不気味な空気が漂っている。底の見えない水の中からは何かこの世のものとは思えぬ異様な怪物がぬるりと這い出してきそうであった。
 桃太郎は池の向こう側にポツンと佇む小屋を見つめていた。
 剣八も小屋を見つめていると、小さな木の扉が静かに開き、中から焦茶の巨大な塊がのそっと現れた。
 小屋がさらに小さく見えるほどの巨躯だった。剣八は一目でその男が王亀だと分かった。遠目からは男の顔は見えないが、その体に浮かび上がる筋肉の文様は見て取れた。なるほど王亀と呼ばれる理由は一目で分かる。まるで巨大な亀である。
 王亀はこちらに顔を向けた。表情は見えないが、池を越えてその鋭い視線が突き刺さるようであった。
 桃太郎がふっと笑うや否や、王亀は小屋から池に向かって走り出し、勢いよく池に飛び込んだ。緑の水しぶきに王亀の体が包まれる。
 あたり一面がつかの間の静けさに包まれる。静まり返った緑の水面。その下で怪物が巨躯を唸らせている。
 桃太郎は腰を下ろし、あぐらをかいた。剣八はとても無防備に腰掛けるような気分にはなれなかった。丸腰で怪物に挑むほどの度胸は持ち合わせていない。
 剣八が桃太郎の頭から前方に視線を移した時には、目の前に巨躯がそびえ立っていた。
 池のほとりから王亀の立っている位置までが濡れている。王亀の体も濡れて、不気味な光を放っていた。
 剣八は、およそ七尺はあるのではないかと思われる王亀の巨躯を辿り、恐る恐るその顔を見た。
 途端剣八は恐怖がスッとひいていくのを感じた。
 王亀の眼は優しかった。穏やかな光がその眼に灯っている。悪意や乱暴さを微塵にも感じさせない、何か崇高な、純粋なものが宿る眼だった。
 王亀の禿げ上がった頭には額から後頭部にかけてノコギリの刃のような刻み目があったが、その眼の優しさからか、その傷跡の由縁に思いを馳せる気にもならなかった。
 王亀は剣八を一瞥し、腰を下ろした。剣八はいつのまにか地に手をついていた。
 桃太郎の前であぐらをかくこの男を見下ろすということがひどく無礼なことのように思えたのだ。
 「久しぶりの来訪者だ」
 王亀の声は低く、柔らかかった。
 「あなたをなんと呼べばいいだろうか?」
 「なんとでも呼ぶといい」
 「そうか、では王亀と呼ぼう」
 「……おうき。中華の武将のようだな」
 「王亀、俺を知っているか?」
 桃太郎は王亀に向かって尋ねた。
 「知らんな。だが、今はお前を知っている」
 「名を知っているのか?」
 「名を知ることは、お前を知るにどれだけ役立つ?」
 桃太郎はふっと笑う。

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