小説

『あやかしシェアハウス』世原久子(『遠野物語 オクナイサマの田植』)

「なつかしいです。あの畳の部屋に初めて置いてもらった日。葵さんはまだ小さかった」
 まるで子供を見守るようなこけしの眼差しに葵は照れくさくなる。自分が保護者のような気がしていたけれど、話が本当なら相手はずっと年上なのだ。母親を早くに亡くした葵にとってはくすぐったい感覚だった。
 しんみりしていると、葵のスマートフォンに着信があった。マンションの管理を任せている不動産屋の名前が表示されていて、珍しいな、と通話ボタンを押しながら席を立つ。こけしは気にも留めない様子で、スイートポテトの最後の一口を味わっていた。
「品のいいご夫婦で、今は都心にお住まいなんですが、これからは静かな場所で暮らしたいと仰っているんです」
 そうですか……と答える葵の声がかすれる。電話の用件はマンションの内見希望の方がいる、というもので、久しぶりの依頼だった。ありがたい話のはずなのに、どうしてもこけしのことが気にかかってしまう。
 この部屋を手放しても、こけし自体は新居にもっていける。でも、あの子はどうなるんだろう?
 ひとまず内見の日取りを決めて、電話を切る。リビングに戻ったが、こけしはどこにもいないようだった。テーブルの上のお皿も片付けられていて、開け放った窓から蝉の声が流れ込んできている。
「いい機会だと思います」
 うわっと叫びそうになるのを葵はこらえた。いつのまにか真後ろにこけしが立っていて、あの母親のようなやわらかい表情で葵を見上げている。
「この部屋は広すぎる、といつか仰ってましたよね」
「そうだけど、でも、こけしがいてくれるなら……」
 そこまで口にだしてはっとする。いつのまにここまでこの子に依存していたんだろう? 存在すらあやふやなこの子に。
「私はこの部屋でしか生きていけないようなものです。葵さんのことをずっと支えてあげることはできない」
 なにかを断じるような、口をはさむ余地のないこけしの口調に葵は口ごもる。
「やらなきゃいけないこと、たくさんあるんじゃないですか? 新しい家も探さなきゃ」
 ぽんぽん、と葵の腕をたたくこけしの手は暖かかった。

 思っていた以上にマンションの売却はすんなり進んだ。内見にきた老夫婦は優しそうで、二人のあいだに流れている穏やかな空気は、葵にマンションを手放す決心をさせるのに十分だった。
「あの人たちなら、いいと思います」
 こっそり眺めていたらしいこけしもそんなことを言う。神妙な口調に葵は少し笑ってしまって、こけしを怒らせた。
遺品の整理を再開して、不要な家具や家電をリサイクルにまわしてくれる業者に申し込む。仕事のあいまに必要な書類仕事を終わらせる日々がようやく一段落したころには秋が始まっていた。窓の向こうの色づき始めた樹を眺めて、ふう、と息をつく。伸びをしてから畳の部屋に向かうと、こけしが一人でほうじ茶を飲んでいる。自分で淹れたらしい。こんな光景にも慣れてしまった。
「終わったよ」
「そうですか、よかったです。手伝わせてくれないので心配でした」
「これくらい自分でやるよ」
 葵の分のほうじ茶をこけしが差し出す。
「ありがとう」
 湯気でこけしの姿がかすむ。こうやって向かい合っていると、初めて会った日みたいだ。
「次の部屋にも、あなたのことは連れていくからね」
 こけしはぎゅっと湯呑を握ると「はい。楽しみです。ずっとおそばにいます」と微笑んだ。
「スイートポテト食べる?」
 食べます、という嬉しそうなこけしの声はもう葵の耳には届かなかった。

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