小説

『白』和織(『駆落』)

 素直で世間知らずな若者を見て、大人がよく「変わらないでほしい」だとか「そのままでいてほしい」だとか言うけど、とっくにそうでなくなってしまった奴らにそんなことを言われる筋合いはないし、純粋無垢であることに一体どんな価値があるのか、僕にはわからない。多分、みんなそうだろう。みんなそうだけど、「みんなそうだから」という理由で、そう思おうとするか、しないかというだけの違い。
 今井透子は、駅のホームにあるベンチに一人で座っていた。時刻は午前五時半。気温は六度。彼女が約束の時間に着いていたのなら、もう三十分もそこにいるということになる。僕は、ゆっくりと彼女に近づいて、隣に座った。そのまましばらく、黙っていた。チラリと、彼女がこちらを見る。それから三秒後に、僕に気づいた。その気配を感じ取って、僕は口を開く。
「ちょうど、さっきそこで、喜明とすれ違った。向こうは気づかなかったけど」
「え・・・?」
「会わなかったんだ?やっぱり、あんたの様子見に来ただけか、あいつ」
 思った通りの展開に、ため息すら出なかった。喜明は、彼女のキャリーバッグを目にしてどう思っただろう。ダウンコートに手袋をして、白い息を吐きながら自分を待つ彼女を見て、何を感じただろう。想像しようとして、結局止めた。どうせくだらないことしか浮かばない。
「あいつと連絡つかないでしょ?それ無読無視だよ」
「え・・・・・えっと、健太くん、だよね?」
 彼女は僕の言っていることが理解できないようで、困惑の表情を浮かべながら首を傾げる。
「俺の名前覚えてたんだ?」
「だって、話したことあるし」
「ほんの何回かじゃん」
「そうだけど・・・・・・・」
 そのまま、彼女は言葉を失った。今の状況の中に、自分が描いていた未来がもう存在しないという可能性を、やっと見出したのだ。
 今井透子は、大手製薬会社の社長令嬢だ。箱入りも箱入り。というより、箱から出ることを一切許されずにいるような、僕みたいな庶民が、一生に一度出会うか出会わないかというレベルの、時代錯誤的人種だ。そんな彼女が今日成す筈だったミッションは、大学に入って初めてできた彼氏との駆落だった。相手は同じ二年の高田喜明。学年に何人かいる、ちょっとした人気者。口がうまいから、多分そういうところに透子は惹かれた(騙された)のだろう。

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