小説

『キス疑惑』太田純平(『接吻』)

「お決まりになりましたらボタンでお呼び下さーい」
 水をテーブルに置いて歩美が言った。近くに客がいなければ、そんな説明はあえてしなかっただろう。しかし俺の隣には土方のオジさ――いや、失礼、お兄さんだと思うが、口髭を生やしたイカつい人がスタミナ定食にがっついている。歩美はこういった他の客に、俺とのただならぬ雰囲気を悟られたくないのだ。
 注文はすぐに決まったが、さっきよりせわしなく動いている歩美に気兼ねして、なかなかボタンを押せなかった。背中が通路だから、彼女が通る時に声を掛ければいいわけだが、彼女がススッと、今はやめて、みたいな感じで駆け抜けるものだから、もう俺は何も注文せずこのまま帰ってしまおうかという心持ちでいた。
「あい海鮮あんかけ定食お待ち!」
 客の会計で時間を取られている歩美に代わり、厨房の人がカウンターの男性客に定食を出した。すかさず俺は腰を浮かせ、その人にメニューを指しながら「牛すきうどん、一つ」と頼りない声で注文した。
「あい牛すきうどん一丁!」
 厨房の人はそう言うが早いか、レジにいる歩美の方を向いた。
「俺いまオーダー打つ機械持ってないから、お前注文打っといて」
「ウンウン分かってる、アタシ打っとく」
 二人は目だけでそんな会話をした。かえってややこしいことをしてしまったなと、俺はますます居心地が悪くなった。自分は一体ここへ何しに来たのか。歩美の邪魔をしに来たのか。傷つきに来たのか。
 しかもこういう時に限って、さらに余計なことをしてしまうのが俺の運命である。水の追加をしようと、テーブルに置かれているセルフサービスのピッチャーを傾けたところ、蓋がきっちり閉まっていなかったのか、押さえ方が悪かったのか、注いだ水が全部ジョボボボとテーブルに零れた。すかさず土方のお兄さんが「オイオイオイ」と小さくも嫌悪感丸出しの声で俺を威嚇する。「すみません」と平謝りしながら、備え付けの紙ナプキンを根こそぎ取って水分を拭きとった。
 幸い、この一連のちょんぼは、歩美には気付かれなかった。とはいえ、テーブルの上には水が沁み込んでビチョビチョになった大量の紙ナプキンが鎮座している。うどんが来る前に証拠を消さなきゃなと、羽織っていたカーディガンの両ポケットに丸めたナプキンをそれぞれ詰め込んだ。別に服が濡れたっていい。歩美にこれ以上、迷惑なやつだなという印象を抱かせたくなかった。
 相変わらず歩美は店内を動き回っている。忙しそうだ。俺と絡みたくないから、わざと忙しく見せているのかもしれないな、とも思った。
「あい牛すきうどんお待ち!」
 意外と早くうどんが来た。持って来たのは厨房の人だが。
 味のしないうどんを食べながら、俺は頭に浮かべたあみだくじのようなフローチャートで、ある結論を出した。昨日、先輩と歩美はキスをしていた。しかも初めてじゃない。二人には前から肉体関係があった。俺はピエロ。引き立て役。ザッツオール。それだけだ。

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