小説

『秋の修羅』六(『赤ずきん』)

 ああ、酷い。最悪。気持ち悪い。
 いっそもう、死んじゃいたい。それか、殺してしまいたい。
 愛すべき曽祖母の吐瀉物を両の手に受け咄嗟にそう感じた佳世の感性は自分でもどうにもできぬほど生理的なものであり、凝り固まっていて、その礎石の上に自らの思考が働くのであってみれば、そう感じてはならないと諫める内側の声がどれほど喧しく心の中を這いずり回っても、いわば鎖に縛られた身体を動かすようなものであった。佳世はただその吐瀉物を眺めながら、おそらく心の底から良心的な人物であれば仕方ないなあと嘆息しながらいそいそと手を洗い、曽祖母の口元を拭き、雑巾で床を拭き、殺菌を行うであろうし、佳世自身も先月まではどうにかこうにかそうした作業を行うこともできたが、今やそんな一連の作業をしている自分の残像が脳内で流れては消えていくばかりだった。華奢な指の隙間を、細かく刻まれ卵でとじられた小松菜と人参、そして炊かれたばかりの白米の一粒一粒が、胃液と合わさってゆっくりと滴っているのが直に感じられ、床に落ちるたびに、ああ、早く拭かなきゃと急くものの奇妙なことに身体が全く動かない。
「なぜそんな顔をするんだ、道代」
 曽祖母は佳世にそう告げる。なぜ? なぜって……
「お前がこの皿に毒を入れたのはわかっているんだよ」
 曽祖母は佳世にそう告げる。また、毒の話なの、ひいおばあちゃん。
「お前が私たちを裏切った女だってこと、皆知っているんだからね」
 曽祖母は佳世にそう告げる。私は佳世だよ、道代って誰なの……
「お前のことだよ!」
 曽祖母は佳世の頬を平手でしたたかに打った。佳世はその骨張った手が自分の頬に向かって振り下ろされる瞬間を、つまり曽祖母が自身の腕を振りかぶる瞬間を、視界の端にしっかりと認めていた。しかし佳世は避けることができなかった。それは佳世の両の手のひらにはまだ曽祖母の吐瀉物の大半が残っていたため、そして佳世の身体が、避けよと告げる本能のいうことを聞けないほど固まっていたためだった。佳世の心の中には、現在は佳世とその両親、父方の曽祖母の四人が居住するこの三世帯住宅が建造された頃、まだ佳世が幼く、祖父母も健在で、共働きの両親の代わりに真新しい居間のフローリングの上で一緒におままごとをして遊んでいた時の、着物を纏っていつも凛としている曽祖母の表情が浮かんでいた。笑う時いつも口角がしわの寄った頬の中央あたりまで引き延ばされ、そのきれいに整えられた髪と同じくらい白い歯が見え、初めての曽孫を見つめていたためであろう、眉尻が一層緩く下がっていたその表情が心の中で像が結ばれていて、目の前で起きようとしているその出来事の速度に身体が追いついていかないという体であった。

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