小説

『天国の午後』山本信行(『蜘蛛の糸』)

 神田某は、ちょうど糸の途中で休んでいるときでした。フッと体が宙に浮くような泳ぐような気持ちを味わったかと思うと、真っ逆さまに元の地獄へと墜ちていきました。
 神田某と後から糸に連なっていた罪人たちは、地獄の地へバラバラと墜ち叩きつけられました。神田某はドボンと血の池地獄へ墜ちました。そして、
「ああ、やはりこんなものだ。こんなものなのだ……」
 そんな風に思いました。
 ですが彼の心に糸を登り出す前とは違う感覚が生じました。以前の地獄はただ苦しみを味わっていただけでしたが、糸を登る間は進むも戻るもどうなるかわけが分からず希望と不安が混じり合い、とても幸福とは云えませんでしたし、ほかの罪人との力の差にも苦しみました。それに希望と云っても、それは目に見えぬ希望を自ら作り出して、さも望みがあるようにしていたに過ぎず、地獄とも違う苦しみと痛みと疲れに堪えていました。そして今、墜ちてしまえば、もうそこにはこれ以上墜ちることの無い場所という地獄があるばかりでしたが、ここに墜ちた者はすべて公平、平等、対等なのだと気づいたのです。ここには贔屓も手加減もありませんし、先を争って追い抜こうなどという者はいません。神田某は、また地獄の責め苦を味わいながらも心に平安を覚え、はたと気づきました。
「ここは地獄。あの遙か上には天国があるのなら、わしが登っていた糸というのは、まさに人の生涯じゃな。そうじゃ、そうじゃ、そうなのじゃな」
そうブツブツと一人云いながら周りに幾人かの知った罪人の顔を見て苦笑いを浮かべたのでした。
 天国の池の畔は蜘蛛が去り、すっかり静かになって、水面は波一つ無く穏やかさを取り戻していました。神様も、またどこかへ散歩に出かけたようで。

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