小説

『天国の午後』山本信行(『蜘蛛の糸』)

「この糸がどこへ続いているか分からぬし、登り切れるかも分からぬし、もしかしたら切れるかも知れぬが、それでもどうでも、登り始めた以上は登り続ける以外にわしに道は無いのだな」
 そう思い直して神田某は、また自分の力のなせる限りで糸を登りました。その間には、幾人も幾人も彼を追い越して行き、見上げる上の暗闇へ消えて行きました。そういう者を見ると、
「追い越していったやつは、どうなったか。もう天国に着いただろうか。羨ましいものだ」
 そんな想像をして、また「自分もそうなれる」を信じる心が湧いて力が出ました。
けれど時折、神田某を追い越していった者が上から無念の声を発しながら墜ちて来ることもありました。
「ああ、どれほど登ったか知れぬが、かわいそうなことよ」
 そうした者を見ると神田某は「失敗すれば、いずれ我が身も」とゾッとしました。

 神田某は、長い時間を掛けて、もう相当に糸を登ったのでした。それでも糸の先に光明は見えません。手も足も擦り切れて痛み、登るどころかズリ落ちることを恐怖するようになりました。
「わしを追い越して先に行った者は、相当にいるが天国へ行き着いたろうか。わしが上まで行き着けるのはいつのことやら……」
 彼の心は、もう何の励みも無くなりそうでした。諦めてしまいたいとさえ思いました。そうしてジッとして思い塞いでいると、また少しだけ、
「天国へ行けるのじゃ」
 そういう思いが痛みと疲れを上回ってまた登り出すのでした。

 
 天国の池の畔では、地獄に糸を垂れた蜘蛛がそこにジッとしたままいました。長い時間そうしていたので、神様はそこを離れてどこか歩き、時折戻って来ては糸を登ってくる罪人の具合を見て、神田某以外の者が登ってくると「ほれほれ」と手を振って地獄へとはたき落としていました。
「やれやれ、あの男はここまで登り詰めるにはまだまだ時が必要なようじゃナァ」
 神様は永遠の時の流れの中でも、やはりこの神田某の為にだけここにいるわけにはいきませんから思案しました。そしてその時、糸を垂らしていた蜘蛛が云いました。
「神様。わたくしも、いつ終わるとも知れない時をここで糸を垂らしたまま過ごすわけには参りません。そろそろおいとまをしたいと思いますが、よろしいでしょうか」
 蜘蛛のその申し出は神様にも十分分かることでした。
「そうじゃな。おまえにも時間をとらせたな。今回はこれまでとするか。これもまた運命というもの」
 神様のことばを聞くと蜘蛛は体を僅かに震わせて垂らしていた糸をプツンと切りました。

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