小説

『おしまい食堂の夜』大町はな(『夜汽車の食堂』)

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どこをどうして歩いてきたのか、自分でもさっぱりわからないが、とにかく僕は、その店の前に立っていた。辺りはとっぷりと暮れていて、頭のちょうど真上の方に、満月が心許なく光っていた。
かつて僕が住んでいた場所は、星の見えない街だった。真っ暗な中に、月だけがぽおっと浮かび上がるので、修哉はそれを怖がって、よく泣いていた。
昔のことを思い出したのは、その満月の少し下の方に、ぼやぼやと星の群れが広がっていたせいで、ずいぶん遠くまで来たものだと、腰のあたりをぽんとやった。
「おしまい食堂」
暖簾の右のすみっこの、まさに布の終わり目だろうというところに、聞きなれない店名が記されていた。ビルとビルとの狭間に押し込められたような、窮屈そうな店構えでありながら、その両脇はがらんと空いている。白みがかった木製の引き戸は、はめこまれたすりガラスの向こう側が薄明るく光っていて、それとなく営業中であることを示していた。
「こんばんは」
中に入って声をかけてみる。そこは、入ってすぐにテーブル、というつくりではなく、玄関のような土間のような、ぽっかりとした空間があった。外観は小綺麗で新しいように見えたが、その空間はひどく寂れていて、どこか懐かしいような、不思議な佇まいをしていた。
「誰かいませんか」
四角形に区切られた入口は、三面がコンクリートの壁になっていて、左側には障子が張られていた。明かりの源はその向こう側にあるらしく、飴色のやわらかな光が、漏れた水のように染み出ていた。
気配はするが返事はなく、僕はただ、そこに立ち尽くしていた。右側の方には木製のベンチがあって、それはあまりにもボロボロで頼りなかったから、気が付かないふりをしていたけれど、ぼけっと立っているのも癪なので、ひとまずは座らせてもらうことにした。
そうして部屋の中を眺めていると、すぐに懐かしさの正体がわかった。かつて僕が住んでいた街にあった、無人の駅舎とよく似ていたのだった。
息子は――修哉は、物心ついた時から電車が好きで、家に一番近い踏切から駅まで、よく一緒に散歩した。三時間に一度、特急電車が滑り込む時には、僕の腕から転げ落ちてしまいそうなくらい身を乗り出して、きゃあきゃあと喜んだものだった。
休みの日には、駅舎で二人おにぎりを食べることもあった。ベンチに座った目線の先、今ならばちょうど、障子のあるところに改札があって、その隙間からホームと線路がちらりと見えるので、修哉はそれを見るだけで、自分も旅に出るような気分になるのだと言っていた。
けれど、大好きな電車に乗る夢は叶わぬまま、彼は遥かに遠い青空の向こう側へ旅立ってしまった。切符さえあれば、修哉はいくらでも電車に乗ることができたのに、どうして僕は駅舎で満足させてしまっていたのだろう。紙切れ一枚の後悔はいつまでも心につきまとって、何かあればすぐに、修哉の姿が浮かびあがった。

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