小説

『夜空の月』吉岡幸一(『かぐや姫』)

「お母さん、どうしたの。胸が苦しいの」
「都会のお月さんは霞んでみえるね。空気が悪いんだろうね」
 弱弱しい声で言うと、敏江は気を失ってしまいました。
 すぐに救急車を呼んだのがよかったのでしょう。敏江は病院のベッドに運ばれたときには落ち着きを取り戻していました。医者からは今日一日様子をみて問題がなければ明日退院をしてもかまわないと言われました。心臓が弱っているとのことでしたが、無理をしなければ日常の生活は送れるということでした。安堵すると同時に不安も増しました。
 姫子は病室で眠っている母の手を取りながら田舎へ帰る決意を固めていきました。
「やっぱり私がお母さんの面倒を見るしかないのよ。わかってくれるでしょう」
「やっぱり会社を辞めて僕も田舎に行くようにするよ」
 和也も決意を固めるように答えました。姫子の横に腰かけ握りしめた両手の拳を膝の上に置いていました。
「でも……」と言って、姫子は口を閉じました。和也が目を真っ赤にしていることに気がついたからでした。
「前にも言ったことがあると思うけど、僕には両親がいないんだ。大学を卒業する前、交通事故に合ってふたりとも亡くなってしまった。だからもう帰る田舎もないし、恩返しをするような親もいない。代わりじゃないけど姫子のお母さんを本当の親のように大切にしたいと思っている。仕事のことはなんとかしてみせるから……」
 反対したい気持ちもありましたが、和也の熱意に甘えたい気持ちも湧いてきます。和也と結婚したい。別れたくない。幸せになりたい。そんな気持ちが抑えようもなく溢れでしてきました。ただしその気持ちを言葉に表すことはしませんでした。甘えてはいけない。仕事の夢を奪ってはいけない。まきこんではいけない。そんな想いが声にでそうになるのを姫子は押しとどめていたのでした。
「かぐや姫は本当に月に帰りたかったのかね」
 目を覚ました母が消えるような声で言いました。
「気がついたのね、お母さん」
「迷惑をかけてしまってすまないね」
「どこか痛いところはありませんか」
 和也は立ち上がって言いました。
「平気ですよ。ちょっと眩暈がしただけ。病院だなんて大げさなんだよ」
「お医者さんを呼んできますね」
 和也は足音を立てないようにそっと病室から出ていきました。
「かぐや姫は月に帰ってから幸せに暮らしたと思うかい」
 敏江は窓の外に見える月を眺めながら言いました。月は雲のすき間からうっすらと輝いています。独り言のようであり、姫子に答えを求めているようでもありました。
「そんなことわからないわよ」
「そうだよね。わからないわよね。こっちにいた方が幸せに暮らせるような気もするけど、月に帰った方が幸せのような気もするしね。こればかりはいくら考えてもわからないわよね。きっとかぐや姫自身もわからなかったんじゃないかしら」
「かぐや姫のことなんて、いま話さなくたっていいじゃない」
「私がかぐや姫だったら月になんか帰らないけどね。だって、月に帰ったってすることがなんにもなさそうだからね。こっちにいた方が自分らしい生き方をできそうじゃないか」
 敏江は、ふふっと笑いました。
 すぐに医者がかけつけてきました。母の脈をとり容態を確認してうなずきました。
「大丈夫です。明日の朝には退院できますよ」

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