小説

『彼の猫』斉藤高谷(『山月記』)

「君は、俺が小説を書いていることを知る、唯一の人間だからナ」
「あ、そうなの?」受け止めようと準備していたのとは別の言葉だったが、これはこれでかわすわけにはいかない言葉だった。「誰にも言ってないんだ?」
「まあ、訊かれない限り自分からは言わないからナ」
 先ほどの〈トクン〉が何度も起こる。やがてそれは動悸となる。ときめきとかそういった類いのものではない。自分が知りたかったことを知るチャンスが目の前に転がってきたことでの緊張と、それを知ることへの怖れによるものだ。
 わたしは息を呑み、それから思い切って訊いてみる。
「トモミツ君は、小説家になれたの?」
 答えはすぐには返ってこない。もっとも、返事は聞かずともわかった。もし彼が小説家になっていたなら、まずうちの母が黙ってはいないはずだった。猫を飼ったという情報すらも共有されるのだ。この片田舎では、小説家などという特殊な職業に就いた人間が近所の話題に上らぬはずがなかった。
 やがて、闇の奥から声が聞こえてきた。
「なろうと思ってなれる仕事じゃないナ」
「でも、なろうとはしたんでしょ?」
「途中経過は関係ないナ」トモミツ君は言った。「結果が全てナ。俺は、小説家にはなれなかった」
「なにもう終わったみたいに言ってるの? これからなれるかもしれないじゃない。わたしたち、まだ三十だよ。人生八十年だとしても、まだ半分もいってないよ」
 友人との飲み会の終わりの方でよく出る虚しいフレーズが口から漏れる。そこへ、猫の口から発せられたと思しき溜息のようなものが重なってくる。
「歳じゃないんだナ。俺はもう小説家にはなれないナ」
「猫になったから?」
「なったのが猫だったからナ。俺はそこに、自身の限界を感じたナ」
「よくわからないんだけど」わたしは薄く張った氷を踏むような調子で言葉を挟む。「犬だったらよかったの?」
「猫よりはマシだナ」
 基準がよくわからない。
「虎になったのなら、あるいは気持ちよく諦められたのかもしれない」
「虎も猫も親戚みたいなものじゃない」
「だけど、エジソンの親戚が天才だとは限らないナ」
「まあ、たしかに」わたしは頷く。たしかに。
「俺の、小説に対する想いというのは、所詮は猫程度のものなんだナ。虎のように猛々しいものではなく、日がな一日を日の当たる縁側でぬくぬく寝ているような、生ぬるいものでしかなかったんだナ」
 彼は寂しそうに言った。それから、「これを」と座卓に大学ノートを差し出してきた。
「ネタ帳だナ」

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