小説

『天国か地獄か、どっちもいやだ』平大典(『閻羅』)

 目の前には、川が流れていた。
 どんよりとした霧が立ち込めて、空は真っ暗。
 小石がたくさんある川原に、僕はひとりで立っていた。周りには誰もおらぬ。
 川の水面はどんよりとぬめっていて、透き通っていない。空には雲がないのだが、星も月も一切出ていない。川を舐めるような生ぬるい風が吹くと、鳥肌が立つ。
 なんというか陰気で殺風景でヘンテコな場所だった。
 先刻まで友人たちと酒を飲んでいたはずだが。
 なぜだ。飲みすぎて、記憶が飛んだのか。
 いや、まずいな。僕は小考する。
カノジョに怒られる、いや、半殺しかもしれぬ。先週、しこたま日本酒を飲み散らかし、カノジョの家の前にある自動販売機に抱き着いたまま寝ていた。目を覚ましたら、顔を真っ赤にしたカノジョがいて、持っていたショルダーバッグで殴打され、「今度やったら、別れる!」と宣告されたのだが、翌週にこのザマだ。あかん。やばいやばい。言い訳を考えねば。
 と、あせっていたところ。
ふと、目の前に古めかしい着物を着た老人が姿を見せた。いつの間に。近寄られた気配はなかったのに。
老人は小さく笑みを浮かべて告げた。
「どうもどうも、やっとお越しですか? 飯沼さん」
「へ。なんで僕の名前を?」
「そりゃ、大事なお客の名前は知っておりますとも」
「ふうむ」なにやら怪しい。客ってなんだ。「で、ここはどこですか?」
「なんとまあ。知らないのですか。三途の川ですよ」
「へえ」僕は周囲を見回す。「三途の川って実在する川なんですね? なんつーか趣味悪い名前つけましたね。ここは賽の河原とでもいうんですか?」
「左様です。なんか勘違いしているみたいですが、ここは本物ですよ。ここを渡ると、あの世です」
「本格的ですね」思わず吹き出す。「やりすぎですよ」
「もういいや」老人はあきらめた様子で溜息を吐く。「船に乗せて、川を渡らせている時間も惜しい」
 そして、指を鳴らした。
 パチン。
 瞬間、視界が暗転した。

 気づくと、僕は大きな木製の机の前に座らされていた。

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