小説

『恋するオハナ』はやくもよいち(『とりかへばや物語』)

虫の羽音と間違うほど弱々しい声で名を呼ばれ、俺は足を止めた。
朝の五時半、ジョギング中のことだ。
3月、東京は桜の花にはまだ早い。
手漕ぎボートが浮かぶ池を一周する小径には、人気がなかった。
「イッセイ、清水一成。おぬしはオハナを知っておるな」

八尋愛花(やひろおはな)は俺の彼女だ。
なんか文句あるか、と声の主を探したが誰もいない。
「イッセイ、こちらだ」

足元からしゃがれ声が上がってくる。
ふと視線を落とすと、草むらに30センチほどの亀がいた。
周囲を見渡しても、声の主が見つからないのは当たり前だ。
呼んでいたのは亀の甲羅に座っている、500ミリのペットボトルほどしか背丈のない人型の生き物だった。
赤ら顔の真ん中に、ズッキーニのような鼻が「ずん」と突き出ている。
修験者の装束をまとい、背中に羽を生やしている姿は昔話の天狗そのものだった。
「話しかけたのはあんたか」

俺が尋ねると、ちびの天狗は鷹揚にうなずいた。
先ほどの声は幻聴ではなかったようだ。
よく確かめようと、俺は道端にしゃがみこむ。
見開かれた金のまなこが、いかにも化け物だった。

よほどの年寄りらしく、皮膚はたるみ、肌の色もくすんでいる。
翼は煤のような黒色で、毛羽立ってみすぼらしい。
ちびの老天狗は胸を突き出し、しゃがれ声を上げた。
「おぬし、頼まれてくれないか。オハナとの約束があるのだ」

話を聴く気になったのは、そいつが彼女の名を口にしたせいだ。
どうしたって放っとく訳にいかないじゃないか。
「約束どおり、18歳になったオハナを迎えに来た」
「彼女は俺と付き合っている。ほかの人と間違えているんじゃないか」
「オハナが14歳のときに約束したのだ」

天狗は甲羅の上で精いっぱい伸び上がって、胸を張った。

どうしてちびの天狗に話をする気になったのか分からない。

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