小説

『家を出る女』山崎ゆのひ(『チャタレイ夫人の恋人』)

「失礼します」
振り向くと、長身でTシャツを着た今どきの男が立っていた。20代後半ぐらいだろうか。
電車がプラットホームを離れると、彼が話しかけてきた。
「大丈夫ですか?」
サンドイッチの箱を差し出してくる。私は手を振った。
「ええ」
彼は私の左手薬指の指輪を指して、
「さっきから無意識に指輪を回したりこすったりしてたでしょ。お姉さん、泣いてるし」
私は慌てて目の淵をこすった。同時に、彼の馴れ馴れしさに怒りを覚えた。
「失礼でしょ。そんなんじゃありませんよ」
「すみません、実は僕、妻と別れてきて」
「え? 結婚してらっしゃるの?」
若すぎる彼のあけっぴろげな図々しさが、どうしても婚姻と結びつかなかった。
「してたんですけど、妻に男ができたんです。もう僕とは暮らせないって。子供もいないからって、離婚届にサインさせられました」
「奥さんに浮気されて一方的に離婚させられたの? あなた」
「佳彦です」
「佳彦君、あなたに非はないのよ。家裁に申し立てれば、慰謝料を取れるわよ」
今まで散々考えてきたことが口をついた。佳彦はうなだれて言った。
「僕、妻を愛してるんです。彼女がほかの男を選ぶのなら、僕が身を引くより仕方ないですよ」
「そんな弱気でどうするのよ!」
あまりの頼りなさに、思わず怒鳴っていた。
「私だって、夫に浮気されて……」
「あ、やっぱり」
「何がやっぱりよ!」
「すみません、でも、僕とお姉さん」
「志保よ」
「志保さんと僕、似てません?」
「似てないわ。少なくとも私はまだ離婚を切り出されていない」
言いながら私は自分のあやふやな立場に自信が持てなくなり、次第にトーンが下がっていった。離婚したら、私は一人で生きていけるだろうか。もうすぐ44になる。20年も家庭に籠り、生活の糧になりそうな資格も特技も持っていない。
「似た者同士ですよ」
「違う、絶対に」
車掌が切符の検察にやってきた。佳彦は私の行く先を見て、
「軽井沢ですか。僕もです。志保さん、良かったら僕と駆け落ちしませんか」
お茶でもいかがですか、みたいに軽い調子で言われた。
「旅は道連れ世は情けって言うでしょ」
「ばかばかしい。私、情けなんていらないわ!」
怒りながらも、まるで遠足前の小学生みたいに明るい佳彦のペースに、私は少しずつ乗せられていったのだった。息子ほども年の離れた男と駆け落ち? 私の一生で一番起こりえないことだ。

浅間山が彼方に見える、はずのホテル。窓の外はとうに閉店時間を過ぎたショッピングモールの灯りがまたたくだけ。たまに通り過ぎる車のライトが寒々しい。最終の新幹線も出てしまったので、見下ろす駅も閑散としている。

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