小説

『家を出る女』山崎ゆのひ(『チャタレイ夫人の恋人』)

私は美咲に国際電話をかけた。成長した娘にならこの想いを打ち明けられる気がした。現地は夕方だ。12回目のコールで、やっと美咲が出た。背後に明るい喧噪が聞こえる。
「ママ?」
「美咲、急に電話してごめん。実はパパが浮気したのよ」
言葉にしてしまうと、なんだか軽い感じがした。30秒ごとに加算される電話料金が気になって、要点のみを話すからだろう。
「浮気ぃ?」
美咲の笑い声が聞こえる。
「冗談じゃないのよ、証拠もあるの。パパだって認めたし」
「だって、パパの浮気は、これが初めてじゃないでしょ」
血の気が引いていく音がした。
「知ってたの!?」
「前にパパのスマホ覗いたら、女の人にハートマークいっぱいつけたメール送ってたもん」
カツ丼! 修一は私が作るあっさりめの和食よりも、こってりした肉料理を求めて女を渡り歩いていく。そのとき、遠くから美咲を呼ぶ声がした。みさきぃ。アクセントで、現地の男性だと分かった。
「悪いけど、今友達とパーティしてるの。ママもあまり深刻にならずに、たまには夜の街にでも遊びにいってみたら?」
電話を切られそうな気配を感じ、私は急いで言った。
「美咲、男の人には気を付けるのよ。日本を離れたからって、大胆になってたら……」 
すぐに行くわ、マーク。美咲は流暢な英語で答えると電話を切った。ツー、ツーという音を聞きながら、私はいい妻、いい嫁を演じ続けてきた今の生活が、音を立てて崩れていくのを感じた。

足音を忍ばせて階段を降りる。義父母の部屋からは、テレビの音と穏やかな笑い声が聞こえた。修一はまだ帰っていないらしい。
私は何泊分かの着替えの入ったボストンバッグを下げて玄関を出た。どこといって行くあてはない。坂を下って駅へと向かう。財布の中には、かき集めた現金と私名義のクレジットカードが入っていた。シティホテルに2、3泊すれば気持ちが収まるだろうと思ったが、それで元の生活に戻るのも癪だった。ふと、電車の中で軽井沢高原教会の広告に目に留まった。そうだ、軽井沢に行こう。美咲が幼かったころ、一家で遊んだ幸せな思い出がある。梅雨時でオフシーズンだから、ホテルも予約なしで入れるだろう。まだ新幹線は動いているはず。そう、この時はまだ私はいずれあの家に戻るつもりでいたのだ。

東京駅18時40分発新幹線あさま。軽井沢は通勤圏だと聞いていたが、平日の夕方だからか、スーツ姿のサラリーマンが目立つ。彼らは席に着くと一斉に食事を始めた。私は二人掛けの座席の窓側に腰を下ろした。窓の外を眺めると、暮れなずむ都会の街並みが闇に沈んでいく。惨めな自分に思わず涙が滲んだ。

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