小説

『子化身』霜月透子(『ピノッキオの冒険』)

「え? ミツル? どうしたの、いったい」
 あのミツルが自ら丁寧に謝り、まっすぐ洗面所へ向かうなんて。初めて聞く言葉、初めて見る行動だった。
「ハルコちゃん。ミツルくんね、いい子になったの。もうお姉ちゃんを困らせる弟じゃないのよ。安心してね」
 おばちゃんは優しく微笑み――私の記憶はそこで途切れている。

 
 弟の名を呼びながら走っていたあの街を、今は我が子を抱いて歩いている。街はすっかり姿を変え、あの頃の面影はほとんどない。実家もとうに引っ越したから、この街を訪れたのも久しぶりだ。
 我が子は一向に泣きやまず、小さな体に似合わぬ大声のせいで、耳の奥が痺れている気さえする。
 先ほどの姉弟とすれ違ったきり、あたりに人影はなく、そのおかげでほんのわずかだが、我が子を泣きやませることのできない罪悪感から逃れられる。逃れたい。逃れたい。私は歩き続ける。
 目指す家は今もあるだろうか。
 曖昧な記憶をたよりに表札を眺めていく。そして気付く。求める表札をわかっていなかったことを。私は、おばちゃんの名を知らない。
 子供たちはみな「おばちゃん」と呼んでいた。「こけしのおばちゃん」と呼んでいた子もいたような気がするが、いずれにせよ名前を呼んでいる子はいなかったと思う。
 それならば大人たちはどうだろうと記憶をたどるが、母をふくめ近所の大人が彼女のことを話していた場面が浮かばない。あれほど子供たちが入り浸っていた家だ。大人たちの口の端に上らないなどいうことがあるだろうか。
 大小さまざまなこけしが並ぶ家。大きなものはあの頃のミツルの背丈ほどあった。おばちゃんは優しくて、遊びに訪れるうちにどんな子も落ち着きのあるおとなしい子になった。ミツルのように。
 私は古い平屋の前で足を止めた。ここだけがあの頃のままだった。
 呼び鈴を押すでもなく、声をかけるでもなく立ち尽くす。我が子はまだ泣き叫んでいる。
 泣き声を聞きつけたらしく、ガラスの引き戸が開かれた。そして、あの頃と変わらぬ姿が現れる。
「あらあ。いらっしゃい、ハルコちゃん。どうぞ上がって」
「おじゃまします」
 腕の中で我が子が一層激しく泣いて、おばちゃんが覗き込んだ。
「まあまあ。お母さんを困らせて悪い子ね。さあ、こっちにいらっしゃい。いい子になりましょうねぇ」
 おばちゃんは私の腕から泣く子を引き取る。
「ハルコちゃん、ジュース飲む? オレンジとりんご、どっちがいい?」
 おばちゃんの背後の部屋には、数え切れないほどのこけしが並んでいる。

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