小説

『何千回もある』菊武加庫(『織女と牽牛』)

 若さはあのときのままだが、時はこの人を容赦なくすり減らした。人間たちは知らないのだろう。皺やしみが人を輝かす瞬間があることを。
 目の前の牽牛は見た目こそ若い。だが、二千年の時は確実に彼の内側に降り積もり、歪な、何か目をそらしたくなるような気味の悪い生き物を作り上げた。
「一年ぶりだね」
「ええ。元気だった?」
「変わりないよ」口を歪めて笑う。
「少し歩く?」
「そうだね」
「下の世界を見るのも案外面白いのよ」
 牽牛は黙って背中を向けて私の前を歩き始めた。猫背で歩幅は小さく、若者の後ろ姿には程遠い、暗い倦怠感が滲む。
 にわかに理不尽な運命に怒りが湧きあがって制御できない。
 そうだ、何もかもこの男のせいなのだ。
 この人が衣を隠しさえしなければ。
 この人が後を追ってさえ来なければ。
 私は帰りたかったのだ。やっと衣を取り返したのに追って来るなんて。あのままでは地上に引きずり戻されていた。
 だから私はああするしかなかった。簪をひきぬいて天を切り裂いたのはおばあさまではなく私だった。
 そうまでしてやっと別れられたのに、お父さまがいらぬ同情をして夫婦が年に一度会えるようにしてしまった。あのときの絶望を思うと、そのたび総毛立つ。永遠の若さを手にして、あの時私の全部が終わった。
 目の前の背中、この貧相な背中を押したらどうなるのだろう。
 この男は人間だ。ひとたまりもないはずだ。落ちたら死ねるのではないか。
この人が死ねば私たちの歴史も終わるはずだ。
 牽牛は何も気づかず岸辺の際に佇み、眼下に広がる景色に無言になる。
 息を止め、恐る恐る手のひらを彼の背に近づけてみた。まだ気づかれてはいない。とんと押すだけで私は新しい生、あるいは死さえ手に入れられるかもしれない。老人にだってなれるかもしれない。こんな理不尽に耐え続ける道理はないはずだ。
 手のひらの体温が背中の温度と混じり合う。
 瞬間――。
「すまなかったね、本当に。もうこの日はお互い苦痛でしかないね。だけど一緒に暮らした間は楽しかった」
 突然振り返った牽牛が泣いているように見えた。
 手が止まる。気づかれていた。
 楽しかった?!わからない。おぼえていない。これはひょっとすると老化なのだろうか。
「お食事の用意ができました」
 侍女の声がする。この娘も瞬きをしている間に老女になり、死にゆくことだろう。
 もしかすると夫の背中は私の手を待っていたのだろうか。
 まあいい。チャンスはまた巡ってくる、何千回も。
 私たちはよくある夫婦のように家に向かって並んで歩き出した。
 もはやそうするしかないとでもいうように。

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