小説

『腹ノ池』間詰ちひろ(『頭山』)

「こいつはかなりの大物だ」
ぐっと重い手応えと、竿のしなり具合が尋常じゃない。これは慎重にやりとりしないと、バラしてしまう。針にかかった獲物を、水面から引き上げるまでは少しの油断が命取りになる。針の先にかかっている獲物が、たとえどんな生き物であろうとも。

「……えーっと、つまり入院しなきゃマズいんスかね?」
 画像を見せながら医師は丁寧に説明してくれたけれど、自分のことだとはにわかに信じられない。いや、信じたくない。
「緊急でベッドを手配します。ご家族の方に連絡していただいて、入院に必要な準備を進めてください」
 医師は、淡々とそういったのち、そばに待機していた看護師にあれこれ指示を出していた。
「えっと、ちょっと待ってください。こっちにも予定があるスよ? こんなにピンピンしてんのに、いますぐ入院してくれって言われても無理っスよ」
 蓮沼益男は医師にむかって、食ってかかる。医師は少し眉をしかめながらも落ち着いた声で「蓮沼さん、聞いてください」と諭した。
「ピンピンしてるとおっしゃいますが、病状はかなり進行しており、肝硬変の末期に近い状態です。黄疸も出ているし腹水も溜まっています。こちらからすると、今の状態で体調に問題を感じずに、普通の暮らしをしていたのが不思議なくらいですよ」
 医師はそういったのち「今後の検査と治療方針を決めていきますから」と、待合室で待っているようにと蓮沼を促した。
 待合室で待っている蓮沼にとって、入院は最悪の事態だった。なぜなら蓮沼は、釣りをすることだけに人生を捧げてきた。仕事で出世するよりも、出世魚と呼ばれるスズキやブリを釣りあげたい。女の気をひくより、魚の引きを楽しみたい。魚釣りのために、海岸沿いに引っ越したばかりだ。休日だけでは満足できない。仕事前の早朝や、帰宅してから深夜まで、存分に釣りをするつもりでいたのに。
 蓮沼自身、体調に不安を感じていないわけでもなかった。重りをつけたように身体はずっしりし、倦怠感が続いていた。知り合いに会うたび、顔色が悪いと言われたし、鏡を見ると肌や白目が黄ばみ、腹だけがぷっくりと膨らみ始めていた。それでも、病院に行く時間がもったいない。一分でも一秒でも長く水の中に釣り針を落として、魚の反応を感じていたかった。
 蓮沼は自ら進んで病院に来たわけじゃない。幼なじみで釣り仲間の鵜飼アユ子に無理やり連れてこられてしまった。一緒に釣りに行こうと誘われて、ほいほい付いてきたらまんまと引っかかってしまった。
「おまえ、釣り船の予約したっていったじゃねえか。病院だなんて、話が違うぞ」

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